houさんへの私信だな、こりゃ

 連休を利用して、名古屋のhouさんとmouさん夫妻がお嬢さん(3か月)を連れて札幌にいらした。

 この機会に、共同研究の打ち合わせを進める。方向はおおまかにかたまった、ように思う。metaではなくepiを見る、というところで落ち着く。

 打ち合わせのときには言う機会がなかったですが、どうでしょう、metaとepiの話というのは、ヴィゴツキーの発達理論からするととてもよく分かるようにも思うのですね。

 Metsalaたちのlexical restructuring theoryでは、子どもが似たような音の単語を急速にたくさん覚えるほど、記憶コストを下げるために、分節単位が自然に細かくなっていく、と想定されていました。そのようにしてphonologyが発生するのだ、と。ところがこの理論は個人の頭の中だけを問題として、いわば純粋なepiというものを想定しているように思うのです。

 一方で、レキシコンというのはソーシャルでフィジカルなものでもある。そもそも、メンタルレキシコンというのも、外的なブツとしてあるレキシコンに基づいたメタファであるわけですから。私たちは、モノとしてのレキシコン内の単語と単語が区別しやすくなるよう、歴史的に協同的に、単語のよけいなバリアントを整理してきたという経緯もあるのではないかと思うのです。要するに、一種の淘汰の過程があった、と。

 とすると、現代の子どもたちは、あらかじめ整理された単語を再整理するという作業をしている、とモデル化できるのかもしれません。ヴィゴツキーのいう二重の発達モデルからすると、MetsalaやGoswamiの考えていることは一種の主知主義であり、要は不十分なのです。

 こういう議論もアリではないでしょうか、houさん。

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