開闢二日前

 世に自然科学者と呼ばれる者が魅力を感じるフィクションのベスト10というものがあるとするならば、おそらく、Lewis CarrollのAliceと、JoyceのFWはどこかにランクインするだろう。

 自然科学者がアリスに惹かれる理由は、Carroll = Dodgsonが数学者だったから、ではない。Carrollは徹底して子どもに向けて書くことに努めた。数学者としてではなく、子どもを楽しませるおじさんとして書いた。ということは、子どもが惹かれる世界とは、結局のところ、科学者が惹かれる世界でもある、ということだ。

 たとえば、鏡である。左右は反転するのに、なぜ上下は反転して見えないのかという問いは、いまだに第一級の謎である。そしてまた、あべこべとは子どもがゲラゲラ笑い転げる第一級のジョークである。

 FWはどうか。

 FWが自然科学者好みだというのは、別に、Murray Gell-Mannが物質の極小構成要素にquarkと名付けたからではない。Gell-Mannは、名付けを与える前からFWを読んでいた。そして、それとは別に、構成要素に「クォーク」という発音を与えていた。だから彼は、FWにquarkという綴りを「発見」したのである。

 発見、それこそが、FWを読むという作業と、自然科学という作業の似ているところであり、科学者を惹きつける所以であろう。自然と同様、FWというテクストも、われわれの眼前に、ポンと投げ出されている。そしてどちらも、それ自身の構造を持つ。

 自然科学者は、目の前にありながら(そして自身、その帰結でありながら)いまだ判明していない自然の構造とその運動を探り、少しずつ何かを発見する。

 FWも似ている。FWはあいまいである。一義性からほど遠いからこそ、複数の解釈が同時に潜在することができる。ひとつの解釈を見出すと、そこから連想される別の事象へのリンクが発見される。そのリンクは潜在的にはすでにテクストに書き込まれていたはずだ。発見とは潜在性をひとつの現実態にするはたらきのことである。

 PCを生活や仕事の一部として、もう何年経つだろう。ブラウザを立ち上げた回数も数え切れない。それだけインターネットが生活にくいこんでいる、ということだ。

 しかしそれだけなじみがあるはずのものでも、日常的なネットサーフィンだけでは到達できない彼方がある。それはわたしからは見えなかっただけで、潜在していたことは確かだ。そしてわたしはそうした彼方を発見するだろう。FWの読解という作業を通して。

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