タンスの3段目

早いもので娘ももう1歳を過ぎました。歩くのもだいぶ上手になり,家の中をポテポテとうろつき回っています。

動くのがうまくなるということは,こちらの目が離せないということでもあります。視界から消えてしばらく静かにしているなと油断していると,たいていはろくでもないことを夢中になってやっています。

部屋に置かれたタンスから服を引っ張り出すのも日常茶飯事。せっかくたたまれてしまわれていたのに,全部外に出してしまいます。それで,出した服の山に埋もれてみたり,ズボンを首に巻き付けてみたり,「洗濯物をたたむマネ」をしてみたり。集中して遊んでいるので怒ることもできず,こちらとしてはため息をつきながらもニコニコと眺めています。

しかしながらその様子をよく見ていますとあることに気づきます。部屋のタンスは5段あるのですが,なかでもよく狙われるのは「3段目」のようです。もちろん背の届かない,上から1~2段目はそもそも開けられないのですが,もっと楽に中身を見渡せる,下から1~2段目はあまり開けようとしません。

なぜ3段目なのでしょう。

上の映像を見てみますと,なんとなく理由が分かりそうです。

彼女は引き出しの中をあさるのに「つま先立ち」していますね。つま先立ちをして手の届く範囲(3段目)とは,彼女にとって無理せずに手の届く範囲(下から1~2段目)と,無理をしても絶対手の届かない範囲(上から1~2段目)の,ちょうどあいだにあります。これが決め手になっているように思われます。

彼女が3段目を狙う理由,それは,そこがちょうど「今」の彼女にとって「おもしろい」範囲だから,だと考えられないでしょうか。

ちょっと頑張れば手が届く,ちょっと頑張ればのぞくことができる。この「ちょっと頑張れば」が知覚でき,かつ,実行に移すことができるとき,そのときどきの「おもしろさ」が沸いてくるのでしょう。逆に言えば,簡単に手が届く範囲にある下から1~2段目をあさることは,今の彼女にとっては「おもしろくない」のです。

注意したいのは,あらかじめ「おもしろさ」を感じることが分かっていて引き出しを開けようとし始めるわけではないだろう,ということです。要するに,「おもしろさ」の知覚→引き出し開け行動,という順序で発生しているわけではないだろう,ということです。おそらくは,つま先立ちをして手をのばしたところ,見えるか見えないかというギリギリの目の高さに服が詰め込まれているのを発見し,それをポイポイと外に出しはじめたらおもしろかった,という順番だと思われます。要するに,引き出し開け→「おもしろさ」の知覚という順序で発生したと考えられます。

このように,つま先立ちをして手が届く範囲におもしろさを感じるとともに,それがその後に続く学びを主導していくという考え方は,私のオリジナルではありません。フレッド・ニューマンとロイス・ホルツマンという,アメリカの哲学者・心理学者が,学びとは何なのかを考える上で,「頭一個分背伸びをすること」がもつ,学びにとっての本質的な意義について議論しています。その議論の背後には,ロシアの心理学者ヴィゴツキーの発達学習理論が横たわっています。

心理学をちょっと勉強した方ならば,もしかすると「最近接発達領域」の話かなと思われるでしょうが,その通りです。ただし,私がニューマンとホルツマンの議論に同調するのは,2人は学習者が感じる情動的な側面,ここで言うところの「おもしろさ」が,学びの成立に欠かせないと看破しているところです。娘の話に戻れば,彼女はほんとうに夢中になって服を取り出しています。この行動の背後には情動的な衝動があるように見えるのです。

学びというと私たちはつい,何かを意識的に記憶したり,自分自身を自己反省的にふりかえったりといった認知的な側面ばかりを重視してしまいがちです。しかし,その発生時点までさかのぼると,むしろ情動が大きな役割を果たしているでしょうし,そう考えると情動と認知を区別することはできないだろうというのが,ニューマンとホルツマンの考え方です。

この考え方を,例えば学校教育に敷衍するならば,教師は子供の学びをどのように導けばよいのかという問いと結びつくように思います。子供の学びを発生させる初発の情動的な衝動を起こすことがうまくできているでしょうか。「なんだろう?」という好奇心もそうでしょうし,「え?ほんと?」といった驚きもあるでしょう。そうした情動を起こすような問いであるとか素材を子供に提示できるといいんじゃないかな,と思います。

子供の学びを引き起こすもの,それは,1歳児にとっての「タンスの3段目」のような対象の存在だと言えるでしょう。

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