だから、映像なのだ

かつて、ノルマンディーで [DVD]
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 ニコラ・フィリベール監督の『かつて、ノルマンディーで』を観る。

 1976年公開の、ルネ・アリオ監督の映画『私、ピエール・リヴィエール』。フィリベールはかつて助監督としてこの映画の撮影に参加した。映画に登場する多くの役者は、ロケが行われたノルマンディー地方の小さな村の農民たちだった。その役者たちを、撮影から30年たった2005年にフィリベール自身が訪ね歩くドキュメンタリー。

 モチーフとなっている映画のタイトルにあるピエール・リヴィエールなる人物は実在の農夫で、 1835年に実母と弟妹を殺害した罪で捕らえられた。という記録を、ミシェル・フーコーが発掘したのである。

 彼は捕らえられて後、いかにして罪を犯すに至ったかをつらつらと書き残した。この事実から、彼が正気なのか狂っているのかが裁判で争われることになる。「精神病理学」が法の権力と結びついた瞬間であった、とフーコーは捉える(中山元)。ちなみにフーコー自身、 1976年の映画に出演していたらしいが、その場面はあえなくカットされたようだ。

 さて、『かつて、ノルマンディーで』。この映画はブタの出産シーンから始まる。子ブタは大きくなり、つぶされ、解体される。このブタを世話するのはロジェという農夫なのだが、彼も村の一員としてかつての映画撮影に参加していたらしい。が、その出演シーンはフーコー同様、編集でカットされた。しかし新しいドキュメンタリーでの扱いは大きい。映画のクライマックス、ロジェとその妻となる女性が村の教会(らしきところ)で結婚式を挙げる。

 通常のドキュメンタリーならば、リヴィエール役だった青年クロード・エベールを追うだろう。彼はいったんは訳者を志しながらすぐに引退し、カナダに渡った後、ハイチで伝道師となったのである。波瀾万丈ではないか。しかし、エベールはこの映画の中では終盤になってちょろっと登場し、さっさと荷物をまとめてどこかへ去る。それに対する、ロジェの存在感はどうだろう。

 私は、ルネ・アリオにとってのリヴィエールが、フィリベールにとってのロジェなのだ、と理解した。二人とも、フランスの片田舎に住み、糞尿や藁にまみれ、せせこましく暮らす農夫である。時代を超えて、2人の監督は、フランスの農夫のありようを描きたかったのではないか。

 取るに足らないもの、些末なもの、薄汚れたもの、ささやかなもの、できれば避けて通りたいもの。これらを光の下に曝し、そこにひそむ栄光を見いだすこと。ラブレーからフーコーにいたるまで一貫して流れるある感覚に、フィリベールは確かに連なっている。そのことは、彼の他の作品、たとえば『音のない世界で』や『すべての些細な事柄』を観れば分かる。そこに映された聴覚障害者や精神病院の患者は、ある権力構造のもとでは表に出てこない存在だ。なにしろ、彼らには「言葉」がない。

 だから、映像なのだ。

 取るに足らないとみなされた人々は、端的に、言葉がない。もちろん、しゃべるし、独自の言葉を持つ。しかし、ジャック・ランシエールならこう言うだろう、それは端的に「言葉ではない」。動物の「わめき」に等しいのである。そういえば、『かつて、ノルマンディーで』は、ブタのわめきから始まった。

 ピエール・リヴィエールが捕らえられて書いた言葉(「私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺しました」)は、法廷において審理の対象となった。農夫の胸のうちの吐露は、精神医と弁護士にとっては、あろうことか「狂気の証拠」だった。農夫の口をつく言葉はまともなものとはみなされない。対して、言葉のない農夫の器用さ、たとえば死にそうな子ブタの蘇生法、牙の抜き方、うまい捌き方(ほんとにあっという間)を、フィリベールの映画の中にわたしたちは確かな言葉として見るのである。実践という言葉。

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