An individual as a grin

 ようやっと原稿を書き上げた。関係各位にはひどくご迷惑をおかけしました。ここに謹んでお詫び申し上げます。

 嬉しくなり、帰途東急に寄ってギネスと獺祭を買い晩酌とした。

 何に苦しんでいたかと言うと、ジェイムズ・ワーチを短大生・学部生向けに紹介するという作業に心底苦労していたのである。
苦しんでいたのだが、正確な紹介が必要なのではなく、分かりやすいこと、
自分にも社会文化的アプローチを理論的枠組みとして使えそうだと思わせることが重要だと考え直し、正確さは多少犠牲になろうとも、
具体的な例をふんだんに混ぜながら書いて何とか脱稿した。

 で、PCを開いてみると、かつて苦しんでいたさなかに書いていた一文を発見した。
学部生に分かりやすい例えはないかと呻吟していた頃のものである。結局使わずじまいだったのだが、
もったいないのでここにご披露する次第である。


 どうも昨日からアマネが激しく下している。夜中、寝ているときまでぷっぷとやっているので、妻は対応に追われて寝不足気味、
こちらは手伝いに起きたまま眠れず、このような時間に仕事をしている。

 個人と環境の描き方をめぐって、苦しんでいる。

 ワーチの社会文化的アプローチは、近代西欧的自我論の前提である個人と環境の二分法を超克せんとするものである。
どう超克するかと言えば、個人と環境をあらかじめ措定することが認識論的な錯誤だとすることによってである。それらは、
行為によって事後的に生まれる。行為とは、あたかも、真白き紙を切り裂く鋏のようなものだ。
鋏による裂開が単一の紙を二つのパートを生み出していく。私がイメージするところの、
社会文化的アプローチにおける行為観はこのようなものである。

 近代西欧的自我論の失敗は、事後的に生まれるはずの個人を説明の出発点としたことにある。これはあたかも、
「ネコなしのにやにや笑い」である。アリスのチェシャネコは、にやにや笑いだけを残して消えていった。これがナンセンスだと理解できるのは、
にやにや笑いはネコの属性だということを私たちが知っているからにほかならない。ところが人間の知について説明する段になると、
私たちはにやにや笑いだけを見ようとしてしまう。ネコがにやにや笑いを作ったように、自然が個人を作ったにもかかわらず。

 個人と環境とのこうした錯誤をチェシャネコに例えたのは、これが言葉遊びだからである。

 ここまでのところですでに明らかなように、行為から説明を出発するにせよ、「個人」「環境」という言葉をそこに含めざるをえない。
「個人が環境に対して行為する」といったように。ここで、個人とにやにや笑いをアナロジカルにとらえるなら、「行為が個人し、環境する」
と言い換えることができる。こんなの言葉遊びではないか、と思われるだろう。しかし、
社会文化的アプローチが念頭に置く現実とはまさにこのようなものなのである。こうした表現がおかしいと思うのは、
社会文化的アプローチがおかしいのではなく、まさに言語が個人中心主義を構成していることの明白な証拠なのである。


 なるほど。かつての私はこのようなことを考えていたのか。

 かつて、ヴィゴツキーやポリツェルは、抽象的カテゴリを心理の本質とする古典的心理学を非難し、
かわりに具体的個人の動態を描くドラマ心理学の構想を提示した。ワーチはその批判を再び繰り返しているのである。
そのことを私はここでチェシャネコに託したのだった。

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