2004年前半の日記より

040621
 北大では高校生を対象とした1日体験入学というイベントが毎年開かれる。「体験」なので,いくつかのコースに分かれて実際に90分の授業を受けてもらうのだが,今年は自分も担当することとなった。はて,何をしようかと悩んだ。せっかく幼児園という施設があるのだから,と,園庭の遊具でどのような身体動作が可能なのかを調べてもらうというプランを立てた。子どものころに遊んだ遊具について思い出してもらいながら自己紹介。その後,幼稚園設置基準から「すべり台,ブランコ,砂場の3つが園庭に設置されていること」という項目が削除されたことを紹介。ここから,子どもの遊び場をもう一度考え直してみることを提案し,いよいよ園庭へ。3人ずつ5チームに分かれてもらって,ブランコ,ジャングルジム,アスレチックジム,シーソー,築山の5つの遊具(最後のは遊具か?という声もあがったが)を使って可能な身体動作をすべてリストアップしてもらうという作業を行なった。リストアップされた動作をすべて演じてもらい,ビデオに撮影。部屋に戻ってビデオ鑑賞しようと思ったのだが,ここで時間切れ。最後はベンソンや佐々木正人さんの本を紹介して終わってしまった。高校生たちも,当方も,緊張してうまくいかない部分があった。来年以降はもう少し流れを洗練させてみよう。やはり授業は難しい。

040607
 数年前から全国をまわっている水俣展が札幌に来たというので,昼休みを利用して出かけた。北大正門脇の建物で開催されていたので,そんな気にもなったのだ。これが,電車を使わねばならないなどとなったら,たぶん行かなかった。他意はない。単に出不精なだけである。それにしても,と思う。魚を捕って暮らしていた人々は,その魚を売って生計を立てていた。だから,売れなくなることを恐れ,病気の発症に沈黙した。その魚を買う人々がいた。工場に働く人々もその一部だった。工場に働く人々は,働く場を相手取って金を要求する人々を殴りつけた。市は懸命に工場を誘致し,そして病気が出たあとも,懸命に工場を擁護した。一方を擁護するからには,他方を棄てなければならなかった。こうした関係性において,棄てられた人々がいた。市民は漁民を棄て,国はその市民を棄てた。大事なのは,この関係性が,経済がぐるぐる回るシステムにもとから潜在していたものだった,ということである。それがたまたま,九州の海辺であらわれた,ということだ。事実は一つであり,連鎖している。だからこそ,この連鎖のどの部分を「事実」として切り取るかによって,表現が大きく変わってくるのである。しかしこの連鎖は,あくまでもあるシステム上の出来事だ,ということを認識しなければならない。別のシステムには別の連鎖があるはずだ。人間は金を作った。しかし,金は人間を作れない。だから,経済と生命は別のシステムである。生命のシステムを経済という別のシステムで測定し,交換しようなどというのは,仏教とキリスト教のどちらが正しいかを判断せよ,というようなものだ(そもそも測定とか交換とかいう概念は経済システムを構成する関係性だ)。どちらもシステムである限りにおいて正しい。選択は信念の問題だ。そして,私は生命のシステムを信じる。(※書いていて,なんと猪口才な,と感じた。言語というシステムの上でだけ,何を分かったようなことを,とも考えた。その通り,批判は甘受する。ただ,言語システムに乗せた途端,自律的に動いてしまうので,いろいろと差し障りもあるかもしれず,可能な限りあいまいに書いた。なんだか分からん,という人は,言っていただければ酒でも飲みながらきちんと話します。)

040530
 もう酒飲むの止めよう。へろへろの胃袋をかかえるといつも思うのだが,実行したためしがない。ジョッキにビール2杯,お酒なら2合くらいが自分の適量だって,よ~く分かってるんだけどなあ。教訓1…飲み会では勝手に飛ばすな,のんびりと飲む人のペースに合わせて飲め。

040522
 「王の帰還」,ようやく観ました。「指輪物語」映像化の話を聞いたとき,衝撃的でした。かつて,ラルフ・バクシがアニメーションとして映像化したときには,中途半端な終わり方といい,不思議なもやもやっとした画面といい(そういえば,アニメに実写がかぶせられていたりもした),残念だった覚えがあります。調べてみると1978年の映画なので,たぶんぼくはバクシ版をテレビででも観たのでしょう。ともかく,「指輪物語」を映像化するのは不可能なのだ,と諦めていました。そういうわけで,実写による映画化,しかも,3部を3年がかりで公開,などと聞いたときは,正直なところ「頼むからもうそっとしてあげて欲しい」と思いました。さて,3部作を通して観たわけですが,まずは映像化の功績に拍手を送りたいと思います。しかしあらためて思うのは,「絵にも描けない美しさ」は,やはり絵に描けないのだ,ということです。と同時に,「絵にも描けない醜さ」も,描いてしまうと絵としての醜さになってしまう,ということも感じました。想像力というのは,やはり「力」であるのだなあ。でも,この物語が叙事詩である以上,「余白」があらかじめ排除されているのかもしれない,いや,余白は排除できないにせよ,そこに何かを託すということをはなから当てにしないのかもしれない,そういう気もしました。

040518
 義弟が那覇で働いている。義父母はもう1年も彼に会っていないそうで,妻の発案により,ぼくも含め4人で義弟に会いに沖縄へ。札幌との気温差20度はやはりこたえる。レンタカーを駆って2日間,昼夜と沖縄料理を楽しんだ。もちろん観光も,なのだが,義父母も妻も暑さにくたびれていたようなので,無理せずのんびりめぐることに。結局,那覇近郊の世界遺産巡りに終始した。次来るときは,1ヶ月くらい島でぐうたらな生活を送りたい。30年後くらいか?

040507
 ゴールデンウィーク中は遠出しなかった。行楽らしい行楽は,円山動物園に行ったくらいか。仔白熊のツヨシが,今かわいいさかりである。母熊は観客を威嚇しっぱなし。

040427
 おとといの新歓合宿,2日目に学生・教員入り乱れての大運動会というのがあるのだが,どうも張り切ってしまったらしく,体の節々が痛い。特に背中と脹脛と太股の裏。歩くたびに「うう」と唸ってしまう。故在って礼服を買った。これから着る機会も増えるだろうから,と思い,冠婚葬祭用の袱紗とともに揃えておくことにした。

040425
 昨日,今日と,日高へ。学部1年生の新歓である。去年も行った。昨年の台風や大雪の爪痕がところどころ,痛ましい。沢はすっかり崩れ,川を流れる水から濁りが取れない。山の白樺は雪の重みで幹ごとすっかり曲がってしまっていた。ということにお構いなしに,1年生は今年も元気であった。猛者は朝5時まで騒ぎ,6時半には起床したという。おじさんはほとんど飲まずに,さっさと寝ましたよ。そうそう,今年も「4年生ですか」という質問は健在だった。教員2年目,なんとか教員に見えるように頑張ります。

040422
 まず,「わたし」と同様に他者も思考する存在だとする。このとき,他者の思考を「わたし」は知ることができない。ゆえに,他者が「わたし」についてどのように思考するかも知ることはできない。他者とは「わたし」と思考を共有しない存在のことである。さて,「わたし」に対して,「わたし」に関する他者の思考を調べよ,という命令が与えられたとする。この命令は「わたし」にとって完遂可能なものか?答えは,ゆるやかに,可能である。但し,次のようにして。「わたし」がなんらかのアクションを起こし,それに対する他者の反応を観察し,その思考を推測することを通して。他者の反応を観察しないあいだ,原理的に,「わたし」は他者の思考を推測する根拠を持つことはできない。したがって,他者が「わたし」の行為に関して,「迷惑だ」という思考をするかどうか,「わたし」がなんらかのアクションをする以前に推測せよ,というのは不可能である。不可能なことは命令しても無意味だ。

040414
 ふっと思い立って,サイトの見た目を変えた。ファイルの構造を整理したついでに。

040408
 研究室が広くなった。部屋を共有していた院生が別の建物に移ったためだ。しばらく見ていなかった,幼児園の子どもたちも新学期になって戻ってきた。構内を歩けば,妙に上気した感じの,兄ちゃん姉ちゃんが歩いている。4月ってのは,こういうことだ。ぼくらが「4月」って言うとき,こういうことをすべてひっくるめて,そう言うのだ。この感覚を,意味と言うのだろうな。

040402
 札幌に来て1年が過ぎた。春はポプラの緑,夏は山の青,秋は銀杏の黄金,冬は天地の白,みんな見てきた。仕事では,教員として,そして本格的な研究者として,何ができるのか試した1年だった。ときどきは研究発表をしたし,論文のようなものもちょこちょこ書いた。共同で何かをやろうと,うろうろと動き回ったりもした。気がつくと,ズボンの腰回りが少しゆるくなっていた。今日,サスペンダーを買った。ベルトからサスペンダーへ。ささやかな新年度の儀式である。

040331
 今月末の本人動向。21~23日,白百合女子大にて発達心理学会に参加。この学会でのポスター発表は実に4年ぶり。毎年参加はしていたのだが,発表するネタがなかったのだ。自分ではイロモノ研究だと思っていたのだが,意外と興味を持ってくださる方がいて驚く。25~27日,名古屋にてグレゴリー・ベイトソンを読む会に参加。この合宿,気兼ねなく参加できる数少ない研究会なので,飲み会のペースも上がる。レジュメの準備を前日までしていたこともあり,ついに記憶をなくした。どうも風呂でなにか叫んだらしいのだが,さっぱり覚えていない。それでも,手羽先,どて煮,いずれもうまかったことは強烈に覚えている。29日,筑波で開かれた研究会に参加。ごくごく内輪の集まりかと思って行ったら20人弱もいて驚く。ここ半年関わっているプロジェクトの参考に,いろいろと尋ねる。打ち上げは,自分の飲み助人生が始まった思い出の居酒屋にて。安心したのか,ここの記憶もところどころ欠けている。記憶をなくすというのは困ったことだが,こういうとき,健忘というのはどういう感覚か,が身をもって確認できるので面白くもある。

040315
 身内の結婚式があり,代官山へ行く。10時から親族紹介があるということを事前に電話で聞いていたはずなのだが,すっかり失念しており,案内状にあった11時半にのこのこ出かけていくと,親族一同どうしたのかと心配していた。こういうときに限って,携帯電話を家に忘れているし。どうもこのたびはすみませんでした。

040305
 ものを書くとき,書き出しに困ったなら,「書き出しに困っている」ということから書き出せ,と言っていたのは誰だったか。自己言及が創作を可能とする,つまり意味を開闢するという点で面白い。ある時代までの数学者や論理学者は人間の知り得る最も美しいトートロジーこそが数の集合だと考えていた。しかしゲーデルという変な人が現れた途端,トートロジーを語るこの私をトートロジーに含めると,そのトートロジーは美しくないものになってしまった。不完全性定理である。しかし,このトートロジーもおそらく意味を開闢するはずである。不完全(=証明できないものを含む,かつ,矛盾を含む)だからなのだろうか。

040221
 紀要執筆のための研究会を終えた足で知人の結婚お祝いパーティへ。ごくごくカジュアルな集まりなのだろうと思っていったら,披露宴に近いもので,出席者はみな正装をしていた。自分はいつもの出で立ちだったこともあり,また,途中からの参加ということも手伝い,隅の方で大人しくしていた。お開きのあと,一緒に出席していた院生とすすきのへ。今月いっぱいで札幌から名古屋へ引っ越す友だちとその旦那さんとワインバーで合流し,夜中の3時まで飲む。

040217
 流山,竜ヶ崎に出張。保育にわらべうたを取り入れている保育園,幼稚園を参観する。両園長先生のお話は最初から最後まで説得力に満ちていた。本ばかり読んで「わらべうた研究者でございます」などと猪口才な研究者など足元にも及ばぬ(無論,私のことである)。たとえば,「取り入れている」と言っても,保育者がオルガンを鳴らし,昔の懐かしい歌を歌うというのではまったくない。わらべうたは遊び歌でもある。保育者と子どもたちの生の声が唯一の楽器であり,また遊びの道具である。生の声が道具となるにはどうすればよいのか?そのような環境をつくる作業も並行して行なわねばならない。では,「そのような環境」とは何か?ここが目から鱗のポイントなのであるが,わらべうた遊びが可能な環境の条件とは,「静かであること」なのだそうだ。せっかく手を繋いで輪になって遊んでいたとしても,まわりにいる子どもがぎゃあぎゃあしていては,歌が歌にならない。遊んでいる子ども同士でも聞こえないのだ。私のように,周辺の園からもたびたび見学が来るそうである。しかし,その園にわらべうた遊びが定着することはあまりない。歌だけを移植したところで,それが育つだけの土壌がなければ立ち枯れするに決まっている。良い保育実践の「良さ」が発現するためには,環境や生活の流れにきちんと埋め込まれていることが必要なのだ。幼児のわらべうた研究は,歌がいかにして生活に埋め込まれているのかに注目しなければならない。

040210
 1月末からここのところ猛烈に忙しかった。通常業務以外にも,海外からのお客さんの接待や(と言っても僕はほとんど何もしてないのだが),研究会の準備やなんやかやで,わたわたと動き回り,ついに顔に吹き出物までできた。先週末から札幌では雪祭りが開かれる。それにあわせて妻が遊びに来たので,真駒内と大通りを2日に分けて見て回った。思ったよりも雪像はでかいものだった。でもあれはたぶん,作る方が楽しい。

040128
 出張で筑波,流山,立川と転戦。どうも出先で本を買う癖がついた。時間が余ると本屋でつぶそうとする。すると,買う気のなかったものまで手に取ってしまうのだ。普段は専らアマゾンに頼っているため,目的の本しか買わない。しかし,本屋に足を踏み入れると,途端にいけない。

040121
 卒論発表会,修論発表会がこの2週間で立て続けに開かれたが,なんとか終わった。卒論生と院生のみなさま,お疲れさまでした。それにしても,といつも思うのだが,執筆経過を見ている者からすると,発表の際にはまがりなりにも形になっているのが実に不思議である。そういえば自分の修論はどうだったか。1月締切りにも拘わらず,確か12月までデータを取っていたのではなかったか。やっぱり不思議だ。

040115
 どうやら虫歯は奥歯以外にもあったらしい。時間がなかったのでそこは次の治療に回すことに。三十路を目前に控え,生命維持の根幹である歯にガタがきているようだ。そんなことを考えながら夕食をとる。詰め物をしたところに違和感。噛み合わせがうまくいっていない。そのうち慣れるものだろうか。それとも医者が下手なのか。次に訪ねたとき尋ねてみよう。

040107
 久々に歯医者に行った。奥歯に詰めていたものが正月に取れたのだ。診てもらうと,どうやら虫歯があるらしい。詰め物の下で進行していたのだろうか。さほどの状態ではないらしく,ちょっと削ってもらい,歯の形に合わせてもう一度詰め物を作り直した。というわけでただいま顔の左下半分が麻酔のためじんわりと無感覚である。無感覚のはずだが,なんだかじんわりとしている。

040105
 学部新年交礼会というのを終え,昼間から酔っぱらって今画面に向かっている。遅ればせながら,『千年女優』観ました。さて,創作の過程は決してリニアではないですね。もちろん冒頭から書き始めてもよいし,真ん中からでもよい。とすると,最後の一文が創作過程の劈頭にあってもよいわけです。現に,「さよう,スナークは,たしかに,ブージャムだったのだ」というセンテンスを思いついたルイス・キャロルは,それを最後の一文とする詩『スナーク狩り』を書き上げました。で,『千年女優』ですが,これもやはり『スナーク狩り』と同じプロセスを辿ったのではないかと思うのです。(これを書いている時点で,今監督のインタビューや『軌跡』など未見である。) 以下追記。上記予想は大はずれでした。当初の企画書には,「老女優の語る一代記」と書かれてあったようです(040112)。

040104
 みなさま あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

2003年後半の日記より

031230 「今年買った本」と題して文献リストを作っている。2003年には,そこに207冊のタイトルが書き連ねられた。昨年は買った本の名をこの頁にずらりと並べたが,今年はさすがに量が多いから止しておく。しかし,読み果せたものはそのうちたった82冊であった。週1冊以上の計算ではあるが,漫画や写真集も含まれているから,読み応えのあるものはなかなか読まないということがわかってしまう。ところで,S先生もK先生も,僕の部屋にいらしたとき,まっさきに本棚を眺めた。曰く,「他人の本棚は気になる」のだそうだ。
 今年の更新はこれで終わり。来年もまた,よろしくお願いいたします。

031224 先日,2年越しで両肩に乗っていた本の原稿をとりあえず形にして提出した。そして今日は,C先生から肩をポンと叩かれて依頼された紀要の原稿をとりあえずの構造にまとめて,英文校正の業者に出した。返ってくるのは来週,なんとか仕事を残さずに正月を過ごしたいものである。そうそう,今日は学部卒論の〆切でもあった。学部棟にもセンターにも,夜っぴて部屋に明かりが煌々と点いていた。みんなそろって無事卒業できるとよいね。さあ,これから年末にかけて,たまっている本をばりばりと読むよ。

031213 先夜は学部の忘年会,ぼくは幹事だった。新人歓迎会も兼ねており,ぼくは歓迎される側であった。歓迎しつつ歓迎されるわたしという,記号の二重性がぼくの身体において生きられた。2次会は,S先生行きつけのすすきののカラオケスナックで。「ハィそれまでよ」「ラブユー東京」を熱唱した。

031207 夕方から降り始めた雪は一夜にして窓の外を白くした。日曜の昼過ぎ,雪が止んだころをみはからって,前日買っておいた雪道用の靴の慣らしにと,意を決して外へ飛び出した。すでに何人も上を歩いた道ができており,圧雪されたそこは気を抜くとつるつると滑りそう。空の青を背景に白く塗られた樺の木を見上げつつ,北18条の駅まで。灯油に支払う現金をおろし,ついでにとギネスを1本。

031204 明日の授業の準備をしながらこれを書いている今は夜の11時。これは独り言,それのメモである。さて「言語の発達」とは,字義通りにとらえれば,言語そのものが発達することである。何も難しいことではない。ゆえに,乳児が成長の過程で一般的に見て上手に言語を使えるようになる過程は,言語発達ではない。その間,言語は発達していないからである。たとえば,自転車に乗る練習を考えてみよう。はじめ乗れなかったものが,何度も転んだりふらふらしているうちに乗りこなすようになる。さて,そのとき自転車は発達しているだろうか?していない,と答える人がいるならば,その人は言語についても同じことを言わねばならないだろう。自転車も発達している,と考える人だけが,言語発達ということばを,幼児の身体的成長と併走する言語学習過程に対しても使用できるのである。言い換えるなら,「子どもが言語を学習する」ことと,「言語が発達する」こととは,異なる現象事象を指すことばなのだ。ところで,ここまで述べてきたなかに,説明を要する前提がいくつか含まれている。学習される言語と,発達する言語は異なるものなのか(これら2つが違う,とも,同じだ,とも言っていない)。そして,ぼくがここで説明に使っている言語と,そのなかに登場する用語としての「言語」は異なるものなのか。そもそも,言語と自転車とをアナロジーで結びつけることは妥当なのだろうか?ということで今日はここまで。

031201 特段書きつけるべきこともなし,師走の意味をこの身をもって知るばかり。

031112 降った。降りましたよ,雪が。恐れていた事態がついに。なんたる!僕にとって雪とは非日常なのであり,その意味で台風と同じなのである。しかし,ここ札幌では雪とは日常である,という。つるつる滑る車の話も聞いた。このぶんだと毎日興奮しっぱなしであろう。

031110 東京国際フォーラムで催されているリバーダンス2003を観た。動きが揃うことには一種の美しさが伴う。と同時に,軍隊の行進から感ぜられるように,それは恐怖でもある。美しさと恐ろしさ,これらは身体の集団が一体化することから同時に呼び起こされる感動であり,リバーダンスのステップの魅力はまさにそこにあると思う。2001年の来日の際は同じこのホールの二階席から眺めていた(僕の少し前にはFFの作曲を担当する植松伸夫氏が座っていた)。今回は1階席後方中央に陣取ることができた。前回には起こらなかったスタンディングオベイション,たたきすぎてむくんだ手のひらを帰りの電車でじっと見つめた。

031106 研究室に寝泊まりすることが院生時代よりも増えた。部屋にソファが置いてあるからだが,それよりもなによりも,仕事が遅々として進まないことに尽きる。

031102 久しぶりに深夜のテレビで映画を観た。一本は「クイーン・コング」。70年代にイタリアで作られた,例の映画のパロディである。以前TVBros.誌上で広川太一郎とクイーン・コング特集というのがあったなあと思い出しながら観た。広川さんと小原乃梨子さんの掛け合いが最高である。ふたりっとも,役者さんが口開けてないところで喋ったりしてるんだもんなー。もう一本は「みんな~やってるか!」。「ビートたけし」が監督したとにかくお馬鹿な映画。ただ人を殺したいだけの男が出てくる北野武監督作品と,ただやりたいだけの男が出てくるこの作品とは,実はまったく同じテーマを扱っているのである。終わった時点で午前4時。

031027 妻来る,すすきので飲み食い。メニューに値段が書いてなかったのでやや不安になりながらお勘定を見て驚嘆。

031019 ETVスペシャル小沢昭一「流行歌のココロ」を偶然視た。「宮さん宮さん」「金金節」「東京節」「金色夜叉」などを披露,まだお元気そうで何より。添田唖蝉坊・さつきとのつながりで,高石ともやと中川敬も出演していた。びっくり。

031011 名古屋からMさんが来たため研究室の院生と一緒に歓迎飲み会を開いた(この頁を読むとMさんがたくさんいるようだが,すべて別のMさんである)。「北のすすきの」こと北24条付近をうろうろ。楽しい夜でありました。

031001 10月。いよいよ後期授業が始まる。人生初授業である。AAに通うあじま先生,大丈夫かなあ。どんどん絵が荒れていく。

030926 前日から風邪気味で早々に帰宅し薬を服用(の)んで布団に潜っていた早朝5時。横に揺さぶられているので目が覚めた。地震だ。けっこうでかい。しかも長い。隣の部屋でドスンバタンガチャンという音がする。収まったので安心し,またうつらうつらしていると第二弾が。これまたけっこうでかい。しかもまたもや長い。テレビを点ける。釧路で震度6,札幌は震度4だそうな。自宅の被害状況を確認。モンティ・パイソン「ホーリーグレイル」DVDケース一部欠け,以上。

030920 とある野球球団オーナーのことばとして,オンライン版のスポーツ紙にあった,「…星野監督の酔眼には敬服…」という一文が目に入った(正確な引用ではない,為念)。酔眼?ペナントレースに負けたひがみからそんなことも口走るかとも思ったが,仮にも球界の盟主たるチームのオーナー,公の場でそんなイヤミは吐くまい。おそらくこれを書いた某紙の記者が間違えたのだろう。酔眼→慧眼が正しいものと思う。ただ,慧眼は「けいがん」と読む。彗(すい)からの連想?つまり,もとのテクストにあった「慧眼」を「すいがん」と読んだ記者が,キーボードでたったっと「すいがん」と打ち込んで変換し,「酔眼」が出てきた,という顛末だろうか。漢字を覚えよ,とは言わない。ちょっとでも不安があるなら調べよ,と言いたい(あと,オンライン版は校正を通っているのかどうかも知りたい)。そうそう,「うるおぼえ」ということばも気になっていた。記憶が曖昧→記憶がにじむ→涙ににじむ→うるうる→うる,という連想?それよりはよっぽど,記憶がうつろ→うろという連想の方がたやすいと思うのだが,なぜ「うるおぼえ」と言いながら不思議がらない?ついでに,口語の「ソッコーで○○する」という言いまわしにおける「ソッコー」に該当する正しい漢字は何?速攻?速効?即行?即効?

030917 同室の院生と連れだって大学正門前の飲み屋へ。そこのおばちゃんに阪神優勝報告をするという口実で。

030916 妻が来たので車を借りて一泊二日の温泉旅行。行き先は夏のゼミ合宿でお世話になった北湯沢である。泊まった宿は川に面した露天風呂を売り物にする古い旅館。飯はたいしたことないが,風呂は良かった。どこからか打ち上げられた大輪の花火を夜空に見上げながら,せせらぎの音で体を洗うのだった。帰りがけ,ニセコの山道をドライブ,キタキツネに挨拶。積丹半島の付け根にある岩内の港ではイクラ丼を食う。小樽の渋滞に巻き込まれた車中,阪神の逆転をラジオで聞く。その夜,戎橋からこぼれ落ちる人びとを眺めつつ,鍋と酒で打ち上げた。

030904 大学はまだ後期が始まっておらず,ずっと三学期制(前にいた筑波大も三学期制だった)に慣らされていた身にとって,これは不思議な感覚なのである。夏休みのような,そうでないような。今日は東京からS先生グループがやってきて,文学部のCOE関係でWSが開かれた。それに出席して見学したのだが,やはりルールの発生というものが,進化的にも個体発生的にも,重大な問題なのだなあと改めて認識した次第。

030901 というわけで,ホームに戻りました。アウェーでの戦績は一勝一敗一分といったところ。その間もかわいそうな本の保護には精を出しておりましたとさ。

030826-7 「チンパク」トハ何ゾ。答ヘテ言フ,チンドン博覧会ノ謂也。毎年一度のこの祭り,上野大阪福岡と,三都市巡りて四年目,浅草浪曲定席の,木馬亭へと馳せ参ず。初日夜の若手オンステージで幕を開け,続いて二日目は御歳86菊乃家〆丸親方の口上に聞き惚れ,高田宣伝社の演舞に瞠目する。前日までの強行軍に疲れ果てて結局最終日の演目は見られなかった。木馬亭の外では宣伝部隊がねりあるき,浅草のゆるやかな空気にチンドンの音を響かせている。「まち」とはどういうものか,「みち」とはどういうものか,音楽でそれらを体現するかれらの至芸に陶然。ところで華やかな浅草寺から少し小径に入ると目立たぬ場所に小さなお堂がある。弁天堂というのだが,この脇にさらにひっそりと,二つの碑が並んで立つ。明治期の壮士演歌の巨匠,添田唖蝉坊とその息子知道(筆名添田さつき)の筆塚である。チンパク番組の待ち時間に界隈を徘徊しているうちに偶然発見した。思うに浅草とは,大衆とは何かがはっきりと形をなして現れた日本で最初の場所ではなかろうか。そういう地霊を求めて,演歌師とチンドン屋が今夏たまたま出会ったかと,いっそう感慨を深くした。

030823-25 第二戦,大阪にて教育心理学会総会。先夜なんばの法善寺横丁でM先生と杯をかわし前夜祭とした。学会という場所は顔見知りにあいさつをする処と心得たり。学会割引の書籍を購うなどもよろし。夜は独り身ですぐすこと能わず,同行をかえ結局3日間法善寺の同じ店でものしたり。帰り際に見上げた道頓堀のグリコネオンは阪神模様に姿を替えて,戎橋にたたずむわれら一行をほほえみながら見守るのだった。

030819-22 今日からホームの札幌を離れ,長期ロードへ出征である。その第一戦,東京・市ヶ谷にて日本発達心理学会主催国際ワークショップに参加した。講師としてキャスリーン・ネルソン先生が招聘されている。3日間の講義に加え,半日の若手研究発表会があった。自分も30分間のプレゼンを行うが,ネルソン先生はなんだか分からないという表情でずっとご覧になっていた。残念ながら,惨敗である。わかりやすい研究,わかりやすいプレゼンを目指すことを誓い,第二戦へと赴いたのであった。

030816 筑波から来たH氏が飲もうと誘ってくる。おう,と半ば徹夜のテラテラ顔で応戦するも,向こうが早々にダウン。ふたりラーメンでしめたのだがこちらはそれでダウン。28歳男子は結局結婚したいという夢を語って夜は更けるのだった。あ,僕は妻帯者ですが。

030812 ついにこのサイトにも21世紀が訪れました。延べ2001人の方が当サイトをご覧になったようです(21:28現在。筆者含む)。路傍の雑草の如く,ほそぼそと書き続けていきます。これまでも。これからも。

030811 岩見沢にある旨い焼鳥屋へこぞって出かける。車で1時間半ほど,夕方4時には広くない店内の席はもう徐々に埋まり始めていた。なんと今回われわれ一行は焼鳥150本も予約したらしい。ここにあるのは精肉とモツの串のみ。モツとは精肉以外のその他の部位(レバ,ハツ,キンカン,ボンボチ等々)がひと串に刺してあるというもの,はじめて見た。5時前から野郎5人で生ビールと串をがあがあ飲みそして食う。しかし100本消化したあたりでもう腹一杯。残りは包んでもらい,かけそばでしめた。良い店である。

030804 先日来28歳というのをやっている。実感などなにもないが,なってしまったのだからしかたない。連続する時間に年齢という区切りを入れ,一年の周期で巡りくる制度を創造した先人は果たして何を考えていたのか。義母より誕生日祝いにと図書カードを頂戴する。使わねば持ち腐れ,早速書籍部へ。書店の棚の端から端までとはゆかぬが,岩波文庫青版を何冊か買った。下のリストに文庫番号をつけてみよう。

030729-31 エティエンヌ・ウェンガーという人がいた。今もまだいる。人間精神への社会文化的アプローチを採用するならば知っておきたい人物である。その人の書いた博士論文を読もう,という集まりが開かれた。宿泊先であるセミナーハウスには温泉が湧き,洞爺湖や羊蹄山など観光地にほど近く,なによりも宿代が只であるのが嬉しい。やはり同じひとつのテクストを土台にディスカッションがたっぷりできるとよい。とにかく純粋に,何かを身につけたいという集まりだから,とにかく中身についてだけ話し合う。これが気持ちいい。それにしても,酒ばかり飲んでた一週間でありました。

030725-28 グレゴリー・ベイトソンという人がいた。生命現象を研究の対象とするならば知っておきたい人物である。その人の書いた論集「精神の生態学」をまとめて読もう,という集まりが,中央大学野尻湖セミナーハウスで開かれた。上野から長野までは新幹線で1時間とちょっと,そこから黒姫駅まで20分くらいと,案外近いのである。さてそうして2日ほどの日程のうち,1日半に参加したのだった。やはり切れる人たち(ぶち切れる,の意に非ず)の話を聞くのは気持ちがよい。研究ではないところで気を遣うなんてことはしたくない。とにかく純粋に,何かを身につけたいという集まりだから,とにかく中身についてだけ話し合う。これが気持ちいい。

030719 明和電機会社説明会が開かれるという情報を聞いた私は事の真偽を確かめるべく札幌市立高等専門学校へ向かったのだった。その前日,実家に電話した折に母親から「血液サラサラになりなさい」と厳命を受けた私は地下鉄南北線真駒内駅から血液サラサラのため歩いて会場へ向かったのだった。なお朝食は鮭缶であった。開場は三時半であるが現在一時半なのでことのついでにと会場からすぐにある札幌芸術の森をぐるりとまわった。移設されていた有島武郎邸は無料公開されているので中に入ると落ち着いた感じでなかなかよい。高専には二時半に着いた。学生さんの作品をつらつら観るがみんな上手いなあと感心しきりである。さて開場とともに会場入りしたが要は体育館なのであった。フロアにプロジェクタとスライド,それと製品が並んでおり,その前がガランと空いている。ということでスライドの真後ろを陣取り体育館座りで社長登場を待つことしばし。雷鳴とともに現れた社長。プレゼン次第は以下の通り(だったような気がする。順番の怪しいところもあり)。明和電機前史(スライド)→筑波大芸専時代の作品(スライド)→魚器シリーズ(ビデオ『Naki』)→サバオ(『サバオでサンバ』PV)→ツクバシリーズ(ビデオ『Tsukuba』)→パチモクデモ→エーデルワイス(末京銃発射映像)→ビットマンデモ→ニュートン銃デモ→閉め→質問タイム。客席から「ビデオにお兄さんが映っていましたが,今どうされているんですか?」という問いがあり,社長が「お兄ちゃんですか?分かりません,こちらが聞きたいくらいです。ハレー彗星みたいな人ですから」と答えていたのがおもしろかった。というわけで事の真偽は真の方であった。以上。

030715 すすきので飲む。Mさんに教えてもらったおでん屋が閉めていたので,すぐそばにあるY先生おすすめの居酒屋で。噂に違わず,よい。今はまだ敷居が高いがいつかはあのバーで,とも思う。終電がなくなった帰りは歩いて大学まで,そして研究室のソファに沈み込む。

030709 博多から長崎へは特急に乗って行った。披露宴を東京で催した都合,妻方の親族のなかにまだお目にかかっていない人がいたので,一度ご挨拶をと思って行ったのだった。降り立った浦上駅から見える空はどんよりと暗く,空気が毛穴を浸食するかのようにまとわりつく。着いた家々ではたくさんのごちそうと酒で,満腹になる。いろいろとありがとうございます。戻った札幌のなんと涼しいことか。

030704 テレビが我が家にやってきた。カラーである。ビデオもついてる。DVDもついてる。とーしばである。これで,テレビを見ながら飯を食うことができる。もちろん,何も映ってないテレビを見てもあんまし楽しくないので(デザインもそんなによくないし),受信された映像を見ているのだが。しかしようやくポチたまが見られる。まさおくんは元気だろうか。

030627 東京からMさんが来札(と言うらしい)。帰りの便が最終だとのこと,夕食を一緒にとることにした。奮発して札幌大丸にある寿司屋へ。高いという話は聞いていたので覚悟していたがそれほどでもないし味もよい。Mさんを見送ったあとで,駅そばにあるホテル地下のベルギービールを飲ませる店へ。ランビック,セゾンなど100種類以上の品揃えに嬉しくて涙が出る。調子に乗って,聞いたことのない銘柄をがんがん飲んだ。大学裏にはアイリッシュパブもあり,駅にはこういう店もあって,札幌っていいなあと思う雨の夜は更けて。

030623 6月の札幌を訪れてみるとよい。天気がよく微風が吹いているならばなおよい。白い綿毛が空気のなかをふわふわふわふわふわふわ…あああああ鬱陶しい。爽やかな風を入れようと窓を開けておくものなら綿毛が隙間から入り込み,部屋の中をただよう。自転車に乗れば鼻の穴に吸い込まれていく。この綿毛の正体はなんだろうなあと思い,C先生に尋ねると,ポプラだという。ポプラの種子(なのか?)が風に飛ばされて漂っているのだ。6月の札幌を訪れてみるとよい。季節はずれの雪をながめることができるはずだ。

030611 SONYの新ブランドかーってよく見たらQUALIA?おおおっ茂木さんか!茂木さんだ!

030605 二題。そのいち。新任教官研修会というのに参加した。大学で教員をしていく上で今後どのような事態が想定できるか,たとえばレポートを出さない学生にどう対処するか,あるいはセクハラをしない・させないためにはどうすればよいか,物品を購入する手続きは,などなどレクチャーを受ける。後半には小グループ討論が開催され,自分が加わった班では「学生が活発に議論しない授業にはどう対処すれば?」という問題を話し合った。とりあえずグループでまとめた対処法を全体に対して発表し,「なにか質問は?」と問いかけると,教官皆沈黙。そのに。いいものを買った。PFUというメーカーのオートシートフィーダ式スキャナ,ScanSnap! fi-4110EOX2。「ボタンひとつで両面原稿をスキャン!」のフレーズに惹かれた。ほんとにボタンひとつで,らくらくと資料をPDFにできる。これでたまっていたコピーを片づけられる。

030531 居酒屋に行った。そのときの話。一人だったんで,カウンターで飲んだ。左手にはサラリーマン二人組,右手には明らかに観光で来た感じの外国人二人組。左手がいつの間にかいなくなって,どうにも右手が気になりだした。何を食いたいか,一生懸命店の人に説明している。フィッシュ,フィッシュ,って。店の人は,冷蔵庫の中から適当なのを選んで,これがいい?それともこれ?とやる。正体がなんだか分からないままに,結局それを食べることになる。なんだかおもしろそうなので,こちらから話しかけてみる。スイスから来たらしい。会話は英語だ。故国には海がない故,海の魚が食べたいんだそうな。店の人が焼いたのは「マトウダイ」である。マトウダイは何と言うのか知らないので,「マトウダイと言うのだ」と日本語で押し通した。トラディショナルフードが食べたいというので,納豆と豆腐と卵と鰹節を混ぜたものを食わせた。適当なところでおつもりに。なんだか楽しかった。

030526 奥さんが遊びに来たので,普段行くことのない札幌観光地巡りをした。北大の構内をぐるりとまわり,札幌駅を抜けて時計台へ。大通公園で一休みしたあと,帰宅。次の日はジンギスカンを食べにサッポロビール園へ。羊の肉をもりもりと食べた。帰りのタクシーの運転手がシャレ好きで困った。「ホッケが美味しい?そりゃほっけーどーだから」「ポプラには雌雄がある。子どもの頃からなじみがあるんだ。ポプラは少年探偵団ってね」「藻岩山から見る夜景はやけいにきれいだよ」ああ,けっこう憶えてるもんだなあ。

030516 コードレスヘッドホンなるものを買い,今,使っている。すこぶる具合がいい。以前は長いコードをPC本体からぶらりと下げて,うっとうしいったらなかった。出歩くのにいちいちはずさなきゃならないし,頭を動かすたびに,コードがどこかにひっかかるし。なら普通のスピーカーを準備すればよいのだが,黙々と作業している人のそばで音楽を聴きながら仕事したいわけで,うるさがられるのは避けたい。そんなあなたのお悩みをズバリ解決してくれるのが,この,コードレスヘッドホン。一台目はオーディオ・テクニカ製の5000円くらいのやつ(ATH-CL33)。自宅のコンポにつないでみると,なかなかいい。トランスミッターから出る赤外線をヘッドホンで受ける仕組みらしく,要はテレビのリモコンと同じなのだが,何しろ光なので,発光部の前方に障害物のない状態でしか使えない。しかしまあ,ヘッドホンを頭にかけたまんまあちこち動き回れる,というのは魅力的だ。調子に乗って,今度は研究室でも使おうと,ビクター製でヘッドホンを耳の後ろに引っかけて使うタイプ(HP-ALW800)を買った。音量を大きくすると,ちょっとしたスピーカー代わりにもなる。部屋に自分以外いないときは,そうして使っている。どちらもヘッドホンを増設可能なのもうれしい。これで複数人に同時に同じ音を動きながら聴いてもらう,というような実験が可能となる。どんな実験だ?

030514 通販で本棚やらソファーやらカーテンやらいろいろいろいろ買っていたため,最近になって毎日運送屋がチャイムを鳴らす。ここは5階建て官舎の4階,エレベータなぞあるはずもなし,重い荷物をふうふうふうふうとあげてもらう羽目になる。届いた分だけ梱包材と段ボールが出る。そいつらを資源ゴミと燃えないゴミに分けつつ一日が終わる。奥さんから薦められたセシールという通販会社で買っているのだが,女性もの下着のみのカタログまで送ってよこすのには困った。

030509 札幌,つったって,僕の身の回りだけかもしれないけど,カラスが多いんだー。そう,でかいやつ。官舎のゴミ捨て場でも,朝っぱらにお食事なさってるよ。一応ね,ネットかぶせてあんだけどね,だめだね。2羽来て,かたっぽがくちばしでネット持ち上げて,そのスキに別のやつがビニール袋つついて中身出すの。頭いいよ,ほんと。大学にもいるよ。のうのうとのさばってる。自転車乗ってたらさ,目の前をカーって言いながら超低空飛行して,バカにしてんのかって感じで。なんであんなにカラス多いかね。猫がいないからか。ノラネコ。ノラネコとカラスって,縄張り争いしてるとこあるでしょ。うん,茨城ではそうだった。ゴミ捨て場に猫がいて,カラスがその上の電線からおこぼれ狙ってんの。いやだねー,カラスは。猫はいいんだけどね,かわいいから。札幌,ノラネコいないねー。冬は生きていけないからか。犬はいっぱいいるよ。飼い犬だけど。クマ?クマはまだ見てない。

030507 週末にかけて札幌から松戸,美浦,筑波へ。まだ札幌は桜だというのに,もう関東はムシムシと湿気の多い暑さ。妻のいる松戸のアパートに転がり込むと,部屋の構造的な問題もあるのだろうが,ムワッとした空気に目がくらむ。この点ではぼくにとって北海道の方がずっとよい。日を変えて,実家から車を借り出し,筑波の元研究室に顔を出す。まだ退学して1ヶ月しか経っていないのだが,新しい人が入ったり,立場が変わったりして,各部屋のメンバーが変わったために,風景そのものが変わった気がする。ぼくが居た席には,研究生が座っていた。変わる,ということは,覚悟と寂しさを伴っている。

030427 学部新入生歓迎会に参加。3年生が中心になって,一泊二日で行なわれる。場所は日高。素知らぬ顔をして学部生に混じっていたら,新入生に間違われた。教員だとそれとなくにおわせた後,相手が恐る恐る口調をタメ口から丁寧体に変えていく過程をつぶさに観察して楽しむ。我ながら悪趣味である。夜は宴会なのだが,さすがに若者の体力にはついて行けず,そそくさと退散。早朝,冬から春の貌に変わろうとする林の中を散歩しながら,同行のS先生にいろいろと教えてもらい野草を探す。ギョージャニンニクなるものを初めて食べた。味はニラに似た感じ。地元の人はヒトビロと言うらしい。大学への帰り道によった道の駅には一袋200円くらいで売っていた。ともかくも,バカに賑やかに飲むことはもうできぬのだなと身にしみて思う二日間。明日からまた大学が始まる。

030424 若手助手が集まって研究発表会+飲む会というのが催され,出席。前半研究会は自分含めて3人。後半飲み会は倍の6人。前半は自分の最近の分析について,少し文脈を変えて解釈したものを発表した。後半は酒の席ならではの話が続発し,ついついニヤニヤしてしまう。帰り,その足でパブへ。飲み過ぎていたため,ギネス1パイントでそそくさと店を出た。

030419 初めての給料をもらい,住む部屋の近くに感じのいいアイリッシュ・パブも見つけ,札幌もなかなかよいものだと実感し始めてきた。午後から,見損ねていた「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」を,札幌駅ビルの階上にあるシネコンで見る。どうやら評論社版で育った人たちのなかに,一作目の訳に文句をつけたのがいたようで,二作目から訳監修に田中明子さんと評論社がついた(戸田奈津子さんの面目もない)。そうした工夫が字幕の端々に見られる。評論社版では「イセンガルド」とあるところを「アイゼンガルド」としたのは,逆に,文字を通してのみ訳していたのを実際の発音にそろえた例か。ただ,トールキンはミドルアースの言語体系をまず先に作りあげてから物語を始めたはずで,だとするならば,発音にも本則があるはずなのだが。

030412 発達心理学会も終わり,札幌への転居も果たし,初めての教授会にも顔を出した。密度の濃い2週間が過ぎ,ようやくひと心地ついたところでこちらも再開する。旧タイトルは「蔵書票」だったが,今度から「あみねこ」とした。日本の研究者なら誰でも知ってるNACSIS Webcatの訳である。きっと誰か同じようなこと考えてるよなあと思うのだが,もういい。これでいく。そのうち「あみねこ・ぷらす」も作るかもしれない。

2003年前半の日記より

030325 日本活動理論学会の立ち上げ総会に参加するため,関西大へ。道中の車内でつげ義春「新版つげ義春とぼく」読み終える。

030324 引っ越しの準備で目が回る。ユクスキュル「生物から見た世界」が届く。

030322 つげ義春「新版貧困旅行記」。山梨県下部温泉へ奥さんと息子さんとともに旅行した下り,井伏鱒二の定宿として「源泉館」なる宿があったと書かれていた。ゲンセンカンかあ,とハタと膝を打つ。

030318~20 2泊3日で福井県美浜町にて開かれた京大の社会心理の人たちの合宿に参加。美浜町といえば原発。10年前に水蒸気発生器で事故が起きた場所である。発電所を見上げる漁港に投宿した。民宿で出された魚がえらく美味く酒が進む。次の日,発電所の見学で分かったことだが,冷却水を漁港のすぐそばの入り江から取って戻しているらしい。戻した水は冷却の役を終え温かくなっているために,結果的に海には暖かいところに住む魚が集まってきているそうだ。複雑な思いで刺身を噛んだ。帰りがけに駅ビルのくまざわ書店で芦奈野ひとし「ヨコハマ買い出し紀行」10を買う。

030317 速達を出したついでに書籍部に寄る。もうここに来ることもほとんどないだろうと思うと,ついつい棚に手が伸びる。つげ義春「無能の人・日の戯れ」「新版つげ義春とぼく」「新版貧困旅行記」,山口昌男「文化の詩学」I・II,ダーウィン「ミミズと土」。指導教官から「TADASHI KAWAMATA WORKSHOP IN IBI KINDERGARDEN」を2冊もらう。誰か1冊要りませんか?

030316 あるテーマの原稿を書くため,クラーク&ホルクイスト「ミハイール・バフチーンの世界」を卒読。バフチン万歳が色濃い。文中何度も指摘していることだが,他者経由の自己,いつまでも一致しない自己というメカニズムを考えたのは,確かにバフチンただ一人ではない。たとえばこのあいだ読んだG.H.ミードと比較してもいいだろう。しかしバフチンは,この不完全さ,未完成を賞賛した。人間は,穴の空いた身体としてある存在なのである。そして私は18日からの美浜町合宿へ向けてプレゼン準備中。20日締め切りの教心ポスター原稿も準備中(でも24日に送る予定)。どちらも穴だらけなのである。

030308~10 8日。朝,茗荷谷からお茶大へ。昼,目黒から国立教育政策研究所へ。夜,東京タワー下から機会振興会館へ。ほぼ同じメンツで,朝から晩まで,研究会をツアーする。9日。地元組合への結婚報告会。10日。NHKで夜中に放送されたU2ライブ映像を視聴。2年くらい前のスレーン城でのもの。

030307 ひとつひとつの仕事を片づけている。そんな中でも,ムゼオ5号の「つげ義春の魅力」,滝田ゆう「昭和ながれ唄」を買う。と書いて気がつけば,二人ともガロではないか。そうかおれはもしその当時に学生をしていたらガロ派になったのか。しかしまあ滝田ゆうの魅力はなんと言ってもギオンである。頭の中のモヤモヤを表す吹き出しと,その中に描かれた小道具を挙げる人もいるし,たしかに僕にとっても魅力である。しかしやはり擬音なのだ。たとえば酒を一升瓶からコップにつぐときには「シャポッシャポッ」と音がするし,電柱の上で煌々と夜道を照らす電球は「ジー」と言う。見るべきは,音だ。

030303 上記のような数字の列をここに書く機会はあまりないだろうし珍しいから何か書く。この日記のようなものは今月31日をもって別のサーバに移すことになる。あるいはそれを機にもう止めるかもしれない。知人に読んでくれている人もいるようなので言っておくと,4月から北海道大学教育学部にて働くことになったのである。しかるべき人にはきちんと書状なりメールなりでご連絡を差し上げる予定だが,まだ住所も仕事も決まっていないので,すべて落ち着いてからと思っている。幸い,自宅には訪ねる人もなく,掛かってくる電話もないので,引っ越しの知らせが遅れても許されるだろう。

030228 あんまり忙しくて忘れていたが,こういうものを買っていた。植芝理一「夢使い」4。

030225 昨日今日と,岐阜県の幼稚園で調査。夜は園長先生宅で夜更けまで宴会。道中新幹線で,郡司ペギオ-幸夫「生成する生命:生命理論I」を卒読する。とりあえず,目を通した,という感じだ。サブテキスト,というと著者は気を悪くするかもしれないが,とにかく「生成する…」を理解する手がかりがほしかったので,行きがけのキヨスクで買っておいた,下條信輔「〈意識〉とは何だろうか」を続けて読み始めた。そこではたとえば「「どんなときに,私たちは自由と感じるか」,また「どんなときに,私たちは自分の行為を自由な選択でない,と感じるのか」(p.213)」という問いが立てられるが,郡司先生はこういう(答えではなく)問いが成立する条件を徹底して詰めようとした,ということになるわけだ。この「とき」と呼ばれる何かが,意識の生まれる場だ,ということなのであるが。

030221 うれしいこと2つ。学類生向けの統計実習のインストラクター業務が本日をもって終了したこと。もうひとつ,4月からの身の振りようが決まったこと。

030219 機械の調子があまりにも悪く,とてもそんな暇はないのだが思い切って再インストールを決行する。今のところ,よい。テレビ東京が朝8時から「チャーリーズ・エンジェル」を流しているのを,飯を食いながら観ている。ファラ・フォーセットが薄手のシャツを,下に何も着けずに引っかけていることがあって,朝っぱらからこんなの見せられたらおじさんびっくりよ。

030216 この二日間,伊豆下田須崎でミード「精神,自我,社会」を読む合宿が,中央大の院生さんが幹事で開かれ,参加してきた。この頁を読んでいる人がいて,びっくりした。どこにもリンクしていないし,当然誰からもリンクされていない(はずと信じる)のに。下手なこと書けないねー。

030212 Wenger”Communities of practice”読書会のためにおととい徹夜した疲れが残っている。この本をもとにした学習論を22日に連名で発表することになっているのだが,さてどうしたものか。と思案しつつ書籍部に行くと,小嶋一浩編著「アクティビティを設計せよ!:学校空間を軸にしたスタディ」,西日本工高建築連盟編「新建築設計ノート 学校」が目に入ったので,買ってみる。

030208 卒論生を主賓に,打ち上げが行われた翌朝,チャイムの音で起こされた。今西錦司「進化とはなにか」「ダーウィン論」,菊乃家〆丸ほか「チンドンひとすじ70年」が届いた。一太郎13も届いた。5年ほど8を使い続けていて,13が出たのを機に買うことにした。

030201 人生,うまくいかないときはいかないが,うまくいくときはあっさりといく。中川敬「中川敬語録」,木下順一郎「心は遺伝子をこえるか」が相次いで届く。六十億の漂泊民に告ぐ!映画はおまえの中にある!

030130 もう1月が終わろうとしているのは早いものだとカレンダーを見,手元に目を移すと本2冊。林俊克「Excelで学ぶテキストマイニング入門」,郡司ペギオ-幸夫「生成する生命:生命理論I」。郡司先生のは,まえがきとあとがきとおまけ対談だけ,とりあえず目を通したが,一読,自分にはここまであきらめることはできるだろうかと考えた。そもそも,あきらめるとか答えを出すとかいう姿勢を私はとらない,というのが郡司先生の立場なのだから,読む私はどうしようもないのだが。ただ,「生きて死ぬ存在」を位置づけ直そうとした割に,「生きる」ばかりが問題に取り上げられ,一方の「死ぬ」が「生きる」の全否定で片づけられているのはどうしてだろうと気になった。中身を読んでいけば解決されるのだろうか。昼すぎ,同じ研究科のI君から郡司ペギオ-幸夫「私の意識とは何か:生命理論II」を受け取る。大学の書籍部で買うというのでついでに共同購入をお願いしておいたもの。感謝。二人で,「なんだかよく分からないが,すごい」「ペギペギやりましょう」と賞賛しあうことしきり。

030127 昨日はWartofskyの”Models”を読む会が大塚でありそれに行って来た。Primary Artifact,Secondary Artifactという議論をしていたことは知っていたので,その内実を確かめるのが第一の目的だった。しかしどうも,いろいろやっていた人のようだ。ナイサーの行為循環モデルはここから来たのだろうか(Wartofskyのrepresentationと,Neisserのschemaはほぼ同じ)。違うのは,行為の対象別に経路を分けていることと,歴史の生まれる場所を記述しようとしていること。

030121 少しずつ前田英樹「沈黙するソシュール」を読み進めていたのが,今日卒読した。何が書いてあるのかさっぱり分からない文だった。全体は,ソシュールの草稿の訳と,それに対する著者の「ノート」を1部として,全8部立ての構成。ラングが差異で構成された体系だという関係論的言説に待ったをかけて,ラングそれ自体が繰り返し自己生成する,それがラングのシステムだ,と言っている(ようなのだがいまいち確信が持てない)。さて,ソシュールを読んだ。ダーウィンも読んだ。その勢いで,池田清彦「構造主義と進化論」を午後まるまるかけて読んだ。2章から5章にかけての,進化論の科学史的読み解きは,グールドに魅せられた人間にとっては緻密さが足りない。一転,自説を展開した1章と6章はおもしろい。ただどうしても気になるのが一点。構造は事物に内在するの?それとも認識によって仮構されるの?どっちなの?

030120 年頭から少しずつルーシール・リトヴォ「ダーウィンを読むフロイト」を読み進めていたのが,今日卒読した。フロイトとダーウィンが直接会った事実はない。しかしふたりは,二十世紀に生きた人々の自然観を大きく改めた点で比肩させられる。ダーウィンはヒトを自然へと位置づけた。生物学と脳解剖学からキャリアを始めたフロイトは,当時もっとも熱かったダーウィニズムを学び,ヒトの精神を自然へ位置づけた。両者に共通する方法論は,「発生」を見ることである。たとえば,自我はイドから,超自我は自我から発生する。

030118 風邪は治ったが鼻汁が出る。桑野隆「バフチン:<対話>そして<解放>の笑い」,白井哲也「パブは愉しい」,「保育白書2002」。奥さんが鉄拳の作品集を買ってきたので二人で読む。二人してケタケタ笑う。

030117 風邪治る。村田孝次「言語発達の心理学」届く。

030115 まだ風邪がぬけきれずにいる。村田孝次「生涯発達:生活心理学的アプローチ」,リード「アフォーダンスの心理学:生態心理学への道」が届く。病床にてグールド「ダーウィン以来」読み終わる。書きぶりの若さにひきこまれ,「個体発生と系統発生」と重複していた多くの内容に,記憶をまた新たにする。

030112 3年ぶりに風邪をひいた。授業をしているときから体の節々とのどの奥が痛かったのだが,なにしろ久しぶりの風邪なので,この感覚に覚えはあるのだがいったい何だったか思い出せずにいた。そうかこれは風邪だと思い出すと,早々と家に帰る。パブロン飲んで寝汗をだらだらかくと,2日目に熱が下がった。さて,言語発達を専門にしていますと公言しておきながら,いままで言語発達と銘打たれた本をあまり読んでいなかったことに気づき愕然とした。今取り組んでいるテーマは,これまでの言語発達研究が暗黙の前提としていたことを正面から問い直す点が売りなので,ここで初心に返り先行研究を洗い直すことに。とは言え,日本語で書かれたレビューを見返すだけなので,ふがいないのだが。村田孝次「日本の言語発達研究」「言語発達研究:その歴史と現代の動向」「幼児の言語発達」「幼稚園期の言語発達」,ルリヤ「言語と意識」,前田英樹「沈黙するソシュール」が古本屋から届く。

030103 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今年の初荷は,グールド「ダーウィン以来」「ワンダフル・ライフ」,ダーウィン「種の起源」,池田清彦「構造主義と進化論」でした。

2002年後半の日記より

021225 「路上やその地域の空間は,のっぺらぼうの舞台などではなく,様々な地縁,利害,感情のからみあった有機的なものだ。ヤクザもおれば,警官も,うるさい商店会長も,行商人も,子どももいる(林幸次郎・赤江真理子「ぼくたちのちんどん屋日記」p.28)。」

021223 グールド「フラミンゴの微笑」読了。ガーゲン(杉万俊夫ら訳)「もう一つの社会心理学」,太田和彦「新精選東京の居酒屋」が届いた。21日には早稲田でコール「文化心理学」を読む会があった。コメンテーターのA先生が予定より30分遅れで到着し,世話人の先生をやきもきさせる一幕もあったが,今回の研究会は自分にとって実りあるものだった。というのも,コールの言わんとすることを理解するには,実は進化論的な発想が必要なのだということに気づいたからだ。原書で読んだ4年前にも,邦訳を買った直後の2ヶ月にも見落としていた点だ。焦点を合わせてくれたのは,最近もくもくと読んでいるグールドの一連のエッセイである。コールは系統発生と文化歴史的発達の違いを表現するメタファとして,「パンダの親指」から,ダーウィン的進化とラマルク的進化の対比を引用している。前者の骨子は以下のようになる。遺伝子の突然変異によって,生命に多様性が発生する一方で,自然淘汰(あるいは性淘汰も含まれるかもしれないが)によってその多様性から一部が生き残り,他の系統が途絶える。これが気の遠くなるような時間にわたって繰り返されることにより,太い幹から何本の側枝が生えた系統樹が出来てくる。これによると人間は,一直線のはしごを登りきった先にいる最高の存在なのではなく,生命の膨大な多様性の一つに過ぎない。ではラマルク的進化観とは何が違うかというと,ダーウィン的の方は自然淘汰を進化の方向性を決定する原理に据えているのに対し,ラマルク的の方は「用不用説」をそれとして唱えている点である。これはたとえば,キリンの首が長いのは食べられる木の実がどんどん高いところに生えるようになったことにより,キリンも首を伸ばす努力をして,伸ばした結果が子孫の体に伝えられていく,すなわち使用する器官は発達し,逆に使用されない器官はなくなっていくという説明である。この説には,個体発生後の後天的な変化が遺伝子に作用するメカニズムが必要なのだが,残念ながらそれはない。つまり,ラマルク的進化は,遺伝子のレベルでは否定されているのである。しかし,グールドは人間の文化はこのようなメカニズムに沿って発達しているのではと,ちらりと述べた。後天的に学習したことを,モノとして外部に取り出しておく(たとえば書物として残す)ことにより,子孫はある学習が済んだ時点を踏み台としてそこから再出発できる,というのである。コールやわれわれにとってここからが理論展開のしどころなのだが,では,ダーウィン的進化とラマルク的進化は,どのような関係を持ちつつ併走しているのか。これを明らかにするのは,これからの問題である。

021217 グールド「個体発生と系統発生」とみかんを受け取りに行く。

021216 林幸次郎・赤江真理子「ぼくたちのちんどん屋日記」,綱島徹「ちんどん屋」が届く。チンドン屋の話はおもしろいなあ。グールド「ニワトリの歯」読了。読んでて思いついたこと。ある環境Eに完璧に適応した行動パターンを示す100体の個体群Aがいる。他方,同じ環境Eに完璧に適応しているのは50体だけで,残りの50体は適応度がだんだん低くなる個体群Bがいる。環境Eが持続している状態ならば個体群BよりもAの方が有利なのは自明だ。しかし環境Eが変動し,E’になったとき,生き残る可能性があるのはBである。なぜなら,個体群Bのなかにいる個体のうち,環境Eに対する適応度の低い変異は,もしかするとE’には適応的な行動パターンであるかもしれないからだ。変異を作り出すのは遺伝子的なパターンであり,適応的な環境が変化するなどして繁殖がついえるのが自然淘汰である。さて,これは個体群とか種を単位とした話だったが,これをひとつの個体の話として考えるとどうなるか。決まりきったことしかできないヤツより,ちょっとはみでるようなこともするヤツの方が,実は打たれ強いという話になるのだろうか。安易な密輸は禁ずべきだが,考えてみる価値はあるのではないだろうか。

021212 ああもうこんな時期だ破滅だ終わりだ絶望だと気ばかり焦っていると聞こえてしかるべき音も聞こえないということか郵便受けに配達物がささっているのを出掛けまで気づかなかった。大山真人「ちんどん菊乃屋の人びと」。チンドン屋大集合を紹介したときにちらりと触れた〆丸親方がこの菊乃屋の親父である。口絵の写真にはメイクも衣装も付けていない「素」の親方が写っていたがチンドンをかかえてすっくと立つその姿は普通のじいちゃんであった。まだ中身をきちんと読んではいないが元瞽女(ごぜ)という老女を正面から写した写真が妙に気になった。

021209 先週の水曜,ふとしたはずみでキャリングバックごとノートPCをアスファルトに落としてしまった。おそるおそる立ち上げてみると,正常に起動はするものの,液晶画面のバックライトが真っ暗。手の打ちようもなく,東芝修理センター行きである。木曜に日通パソコンポが引き取りに来て,金曜の夜に修理費用の見積もりがファックスで届いた(12,100円也)。そして,月曜の午後,雪のため蟄居していたところ,修理されたものが届き,今この文章を書いている。その間5日。別の機械を以前使っていたとき,電源がいかれたことがある。そのメーカーは修理に1週間以上かかった気がする(でも,保証期間内だったためタダですんだ)。戻ってきた機械だが,使用環境も元のままで,感動する。あの,時間ばっかり浪費する再インストールというのをやりたくないのだ。ようやく,まっとうな仕事ができる。さて,PCが使えないあいだに読み果せたものから,声についての考察をいくつか引用する。「人間の咽頭は社会生活を調整するのに必要なある限られた範囲で,音声を調音する”ため”にできたものなのかもしれない。しかし,その解剖学的デザインは,誰もがするようにシャワーを浴びながら鼻唄をうたうことから,まれに現われるプリマドンナの詠唱にいたるまで,はるかに多様なことができる可能性をもっているのだ(グールド「パンダの親指」(上)p.79)」。「最初の頃は,ベル電話会社の内部で,各交換局の主任が交換手たちの声について注意を喚起するという程度のものであった。だがやがて,産業はこの「声」を,新規に交換手を採用する際の判定基準としても用いるようになり,また現場の交換手たちの「声」をチェックし,矯正するシステムも発達させていく。回線加入者からの発話に対する応答や声の調子が規格化され,通話してきた顧客への応対と交換手相互の会話では声が明確に使い分けられるようになった。このような「声」の規格化を通じて交換手たちの発話における人格的要素は可能な限り排除され,彼女たちはネットワーカーとしてというよりも,一定の声のトーンで回線を接続していく交換機械の部品のような存在と化していくのである(吉見俊哉「「声」の資本主義」p.132-3)」。ここには,声についての,種類の異なる二つの進化が語られている。平岡正明「大歌謡論」届く。第二回チンドン博覧会の模様をつづったビデオ「チンドン屋大集合」も届く。これはいいです。〆丸親方の仁義が聴ける!

021203 鈴木裕之「ストリートの歌:現代アフリカの若者文化」。川田順造さんや菅原和孝さんなどのフィールドワークを通して知ったアフリカは,サバンナで生活する部族の姿だった。しかし本書で語られるアフリカは,都市化した世界で路上を住処に,言葉と音楽と肉体を駆使する若者たちの姿を通してのぞいたものである。まだ詳しく読んではいないが,この仕事は大事だ。あと,多田富雄「免疫・「自己」と「非自己」の科学」,兵藤裕己「<声>の国民国家,日本」も買った。多田富雄さんは,以前研究会で面白いという評判を聞いていたので。昨日は吉見俊哉「「声」の資本主義」が届いていた。声関係が多いなー。

021129 コサキン本「シュポ本」を買った。青い表紙だ。相変わらずレジに本を出すときの店員の目が気になる。

021128 午前中床屋へ行ってすっきりして部屋に戻ると,Schieffelin&Ochs(Eds.)”Language socialization across cultures”が,郵便受けに無造作につっこまれていた。

021127 すっかりグールドの虜となったわたしは,「パンダの親指」「ニワトリの歯」「フラミンゴの微笑」(いずれもハヤカワノンフィクションから上下巻)を棚から引き抜くと,レジへ向かった。あとついでに延藤安弘「「まち育て」を育む」も。自分でも買いすぎだと反省しきり。でもまだ1冊注文して届いてないのがあるんだよなああ。

021126 書籍部に注文しておいた本をまとめて受け取りに行く。平井玄「破壊的音楽」「引き裂かれた声:もうひとつの20世紀音楽史」「暴力と音」,大熊亘「ラフ・ミュージック宣言」,川俣正「アートレス:マイノリティとしての現代美術」,DeMusik Inter.(編)「音の力」,金砂大田楽支援の会(編)「金砂大田楽Q&A」。最後のは,来年の3月に茨城県北で行われる,なんと72年に一度のお祭りを解説したもの。茨城大の卒論生さんが,今,このお祭りを裏から支える女性たちについて,フィールドワークを実施している。すばらしい卒論になればいいですな。

021117 知りたかったのは,「前適応」という概念であった。これは,自然淘汰に基づく進化論にある,ある誤謬を指摘したものである。たとえば鳥の翼にある羽は,飛翔という鳥の行動に実によく適応した形状と機能をもっている。しかしこれをもって,「飛ぶために羽を進化させた(正確にいうなら,飛ぶ必要があって,それに適応した種だけが生存し得た)」とは言えない。気温の低下という環境要因に適応するために,爬虫類のウロコが羽毛状に変化して体温が維持された,というのが実際のところらしい。つまり,鳥の羽が飛ぶのに役立ったのは結果的にそうだっただけという話である。これを主張したのが,スティーヴン・J・グールド。買った本が「時間の矢,時間の環」であった。しかし,上記のような話は本書のどこにも載っていない。それもそのはず,単に買う本を間違えただけだから。だが,禍転じて福となるのだ。本書の内容は,17世紀から19世紀にかけて,地質学を牽引した3人の学者が抱いていた時間についての信念を,「矢」と「環」のメタファから読み解くものである。「矢」が表すのは,「反復しない事象の一方向の連鎖(p.27)」としての時間である。一方「環」とは,「根本的な状態は…常に存在するが決して変わらない。…さまざまな過去が,未来で再び現実のものとして繰り返される(p.27)」時間の表現である。単純に言えば,前者は歴史の一回性を,後者は歴史の循環性をそれぞれ指している。実は,これと同じようなことを,バフチンも指摘している。意味の一回性と反復性,あるいは遠心性(バラバラに拡散していく方向)と求心性(一つの中心にまとまる方向)として書かれた概念がそれで,ある具体的な発話が意味を呈しうるのは両方の働きが同時にあるからだと説く。われわれは一般に,ある思考領域では一回性を,別の思考領域では反復性を優先するくせがあるように思う。たとえば発達といえば前者だし,学習というのは後者だ。しかしグールドも言うように,どちらかが正しく,どちらかが誤りということはない。たとえれば転がりながら漸進する車輪のように,反復しながら位置を変えていく運動こそが,発達の正体かもしれない。これはいよいよ「差異と反復」か?

021116 市ヶ谷で,来年の発心RTの打合わせ。おれって,学問にのめりこむってことがないけど,これでこのままやってて,いいのかなあ,と思う,午後でした。そのままのメンツで八重洲で飲み会。とうていここには書けない話がえんえん。帰ってきたら段ボール箱いっぱいのお届け物が。高野文子「絶対安全剃刀」「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」「棒がいっぽん」,アインシュタイン「特殊および一般相対性理論について」。そういえばこんな本も来ていた。Various Artists「あはは、まんが」。ワーチ「行為としての心」,佐伯胖「幼児教育へのいざない」読了。ワーチが言う「他者」とは,ある子どもがどこかで出会った他者ではないのか。たとえば圧政者から押しつけられた語りは,それを専有した者から見てどのようなものだったのか。ってなかんじの,道具が道具とした立ち現れてくる部分がない,ってな批判が,高木さんとか川田さんの言うところなんだろなあ。佐伯先生の話だけど,幼児教育にせよ,学校教育にせよ,「子どもよ,しっかりせよ」という話はよくするが,「教育に全然関係のない大人よ,しっかりせよ」という話は全然しない。「文化的実践」への参加だと言うけど,文化を批判的に乗り越えることは問わない。しかしよいキーワードを知った。「円熟」。

021107 先日ボランティアの役を終えた母親サークルから図書券のお礼をもらった。市川伸一「学力低下論争」,倉田喜弘「『はやり歌』の考古学」に費やす。有意義に使わせてもらいました。

021102~05 東北家族旅行と調査旅行の融合を試みる。2日は花巻へ,ばあちゃんの米寿祝ということで,母方の親族,下は数ヶ月,上は88歳まで,総勢43人を温泉ホテルに集めて飲めや歌えの大騒ぎを遂行。今回,自分は出欠確認役だった。その後は奥さんとふたりで山形,温海温泉へ。ちょっと高級な宿でのんびりとくつろぐ。朝風呂の後ビール,そして朝飯のおかわり3杯と,胃を拡張させた3日間だった。奥さんを一足先に帰して,5日は三川の保育園で調査依頼を,役場へは以前の観察調査で協力してくださった親御さんに御礼を。帰り,山形道は大雪でした。そうそう,中古書店で唐沢なをき「カスミ伝(全)」を買った。

021028 学振2連敗決定。かと思うと,就職したから辞退したって話も聞く。いい。もー出さん。ホルクイスト「ダイアローグの思想」読破。ディアロギスムということばを,実はバフチンは使っていなかった。しかしホルクイストは,これにバフチンの流動的な思考の中心を見たのだ。だから本書のタイトルを飾るにいたった。

021022 午前中は母親サークルで子どもと遊ぶ。帰り道で本屋へ。高野文子「おともだち」,斉藤政喜「耕うん機オンザロード」。

021019 いらいらするとすぐ本屋に足を向け衝動買いする。この一週間で立て続けに何冊も買い込んでいるのはいらいらしているせい。今日も今日とて,渡辺純「ビール大全」と,手紙の書き方が書いてあるのを手に入れた。

021017 高野文子「黄色い本」,廣松渉「物象化論の構図」。

021016 わたわたと忙しい。小泉文夫・團伊玖磨「日本音楽の再発見」読了。堀淳一「ケルトの島・アイルランド」,コール(天野清訳)「文化心理学」を買う。そういえば教心に新曜社が来ていなかった。

021012~14 教育心理学会。熊本は暑かった。半袖と長袖のシャツを1枚ずつ持ってきたが,長袖の出番は無し。熊本に着くまで,自分のポスター発表は2日目だと思っていたが,ホテルの部屋でプログラムをもう一度ながめて初日だということを前日に知る。今回の発表はまるで自信なし。知った人しか来ない。意見をずばずば言ってもらえたので,まあ良かった。来てくださった方,ありがとうございます。いつも通り,本も買った。ワーチ(田島信元ら訳)「行為としての心」,Blum-Kulka&Snow”Talking to adults”,ブルーナー(岡本夏木ら訳)「意味の復権」。3日目は午前中で力つき,午後は熊本城見学,一人で飲み会。

021008 Lucy, J. A. Ed. “Reflexive language”を借りに,春日キャンパスにある筑波大学付属図書館へはじめて行った。つい先日まで図書館情報大学という名前だったところ。閲覧室へのゲートに,おっかなびっくり学生証をかざす。「ピッ」「ガシャ」と,さも当然といったふうに開いた。筑波センターから圧倒的に近いので,今度からイベントを開くときなどはこちらの部屋を借りると良いだろう。午後から読み始めたエリザベス・マレー(加藤知己訳)「ことばへの情熱」,夜中までかけて目を通した。オックスフォード英語大辞典(OED)の初代(正確には二代目,ということは本書で知ることとなる)主任編纂者である,ジェイムズ・マレーの伝記である。日本でいえば,大槻文彦か新村出か。著者はジェイムズの孫で,彼にはあたたかく,彼をとりまく人々には冷たく,筆致はいかにも身内らしい。OEDの最大の特徴は,「歴史主義」と呼ばれるもので,ある単語の用例をAD1150年にまで遡って探し,意味の変遷を実証することにあった。簡単に言うが実際にはこの基準がマレーや続く編纂者たちを苦しめた。単語の歴史と言っても「語源」ではなく,あくまでも使用例の変遷である。マレーは頑固にも,当時(今もか?)通用していた他の辞書からの意義,語源説,用例の孫引きをいっさい認めず,すべて自分の目で確認してから,紙に意義を書き残した。編纂者による作例もほとんどない。OEDを辞書の最高峰たらしめているのは,「現在」を書き留めるという,マレーが残した方針である。当時の辞書とは,古典に書かれた用例のみを「良い意義」として,それを英語に残すべきだと考えていた。現在の「日本語の乱れ」論に通じる論旨である。しかしマレーは,そうした意見に耳を貸さず,”Times”などの新聞や雑誌の記事も積極的に用例リストに加えた。現在がなければ過去もない。あくまでも辞書は,意味の歴史的変遷を列挙するのが目的だ,というのが彼の主張だったのだ。そのときにマレーを突き動かした最大の疑問,それは「英語とは何か?」だった。マレーは答える,英語と他の言語とのはっきりとした境界などない,と。また,「良い言葉」「良い意義」などない,と。すべての言葉は歴史というひとつの軸をめぐり,あらゆる場所で話されていた,記すに等しい価値を持つものである。マレーはスコットランドとイングランドの境界地方出身,つまり方言話者なのだった。クイーン・イングッリッシュのネイティブスピーカーでないがゆえに,持つことのできた見識であろう。

021007 柳瀬尚紀「猫舌三昧」,Peak”Learning to go to school in Japan”,大工哲広「ゆんたとぅじらば」が届く。アレンジがいいねえ。

020926 エドナ・オブライエン「ジェイムズ・ジョイス」(井川ちとせ訳)を見つけ,早速レジへ。

020923 ふと,まだ読んでいなかったアイザ・ボウマン「ルイス・キャロルの想い出」(河底尚吾訳)を本棚から抜き取った。キャロル晩年,すでにかのアリス・リデルも嫁いだ頃,見に行った舞台に登っていたのが少女アイザであった。二人は友達として,オックスフォードの学寮を散歩し,キャロルお手製の遊び道具やことば遊びや物語に打ち興じ,そのつきあいはアイザの婚約まで続いたという。本書はアイザがキャロルの死後,彼からの手紙を引っぱり出しながら往時を回想した文章。翻訳の巧みにぐいっと読ませられた。ハッチオン「パロディの理論」も読了。パロディとは「批評的なアイロニーを含んだ距離を持った模倣(p.87)」である,というのがハッチオンの主張。

020919 カボチャの煮物を作った。砂糖をガバチョと入れて煮たので,甘ったるいお菓子のような代物ができあがった。あとで奥さんに聞くと,カボチャ自体甘いので,砂糖はほんの少しでいいという。まあ料理は失敗を重ねてうまくなっていくものだと理解している。ところでモノ作りが好きで好きで仕方のない人たちの話,宮脇修一「造形集団海洋堂の発想」を一気に読んだ。「造形師」ということばをはじめて知った。かつて一人ひとりが手作りしていたおもちゃを,プラモという形で大量生産,マルチプルにしたのが一時期の模型であった。しかし,宮脇氏の父で海洋堂の創始者,宮脇修は「アートプラ(←商標)」を提唱し,マルチプルを土台にした表現の可能性を探っていたという。プラモはあくまでもキャンバス,そこに自分なりに細工し,彩色するのは表現なのだ。この心意気は,マルチプルを皮肉るウォーホルや,デュシャンといった人々に通じるだろう。そして今,造形師の表現は,食玩(という言い方もこの本で知った)を通じて,確実に人を魅了している。反復を目指すマルチプルと一回性を目指す表現・感動との交錯がここにあるのだろう。「お美術」の世界でこれを自覚的(戦略的)に現在進行形でやっているのが,明和電機である。

020918 ユリイカ7月号,特集は高野文子。そーか,そーいえば80年代ニューウェーブだったんだ,この人は。その他に,ゴフマン「出会い:相互行為の社会学」(佐藤毅・折橋徹彦訳),リンダ・ハッチオン「パロディの理論」(辻麻子訳)。長谷川寿一さんの集中授業を聞いた。「今日は進化心理学のセールスに来ました」と言っていたが,本当にそれだけだった。遺伝の「伝」の字も,適応の「て」の字も,世代も,選択圧も,出てこなかった。思いあまって内容とは全然関係のない,人間の認知の起源とされる類人猿の社会性について質問した。要は,同種の他者はもっとも複雑な環境だ,ということらしい。そして,チンパンジーの社会集団はせいぜい150頭(人?)だが,人間はさらに大きな集団を作ったために,より複雑となった人的環境へ適応するために,ここまで進化したのだということらしい。前者の話はギブソニアンも言っていることだ。ソヴィエトの社会歴史的アプローチならば,この主張に急いで経済と価値と道具という概念を付け加えるに違いない。

020914 DeMusik Inter(編)「音の力:ストリートをとりもどせ」が届いた。中川敬が対比させた「ムラ」と「チマタ」は,本書で展開されるさまざまなミュージシャンの語りのなかでは行政とストリートという変奏となっているように思われる。しかし実際にストリートに犇めき蠢くのは,自由闊達たるナンデモアリではない。本書でも語られるように,ヤクザ,テキヤ,自営業者,夜の女,ポン引き,浮浪者,労働者,クソガキ,そしてもちろん堅気の通行人,こうした人々が互いの縄張りを窺いながら住む「空間(ド・セルトー)」なのだ。チンドンはこうした縄張りの合間を縫うように歩く。ぼく自身は見たことがないのだけど。全国ちんどん博覧会(略称チンパク)というのが開かれているのをはじめて知った。今年は福岡だったそうだ。来年は上野あたりでやらないかな。行くのに。

020912 心理統計の授業をする前に書籍部に立ち寄ると長谷川寿一・長谷川眞理子「進化と人間行動」が2冊も置いてあったので財布と相談してそのうち一冊を買った。先生,いくつか質問があります。(1)自然淘汰が繰り返されると,より適応度の高い1種類の遺伝子に収斂していくように思うのですが,にもかかわらず,実際には遺伝子の多様性はいつまでも残ります。多様性が維持される原因としては,突然変異や環境の変化を挙げてますが,突然変異自体起こらないように遺伝子が進化することはないのでしょうか?(2)変化の方向性はランダムだ,とおっしゃいますが,今となっては人為的な方向付けが限定的ですが可能になってきています。デリケートな問題ですので,一概には言えないとは思いますが,先生たちご自身の見解として,それについてどう思われますか?(3)遺伝子の進化は,世代交代というメカニズムを必要としています。たとえばショウジョウバエやマウスなど世代交代が(人間の時間感覚のなかでは)早い集団では,比較的安定した環境のなかで,そこへ適応していく変化がありえると思います。しかし人間のように,相対的に世代交代がゆっくりとなされる種にとって,1世代内で環境は大きく変動する可能性があります。現に,この日本の20年間を例にとっても,さまざまな新しい道具が環境に現われました。しかし遺伝子がそれに適応することは時間的に無理です。この,世代交代と適応すべき環境の変化のスピードの逆転こそが,人間と他の(野生の)動物種とを区別する大きなポイントのように思われるのですが,いかがでしょうか?特に(3)の質問は,文化を主な関心とする私の立場と深くかかわるので,お答えには興味があるのですが。

020903 吾妻ひでお「産直あづまマガジン」2が届く。先生,かつてのリズムを取り戻しつつあるように思うが。ライターズ・ハイはまだ味わったことがないが,島田雅彦は15時間ぶっ続けで小説を書いていても平気だという。論文ごときでヒイコラするワタシの情けなさよ。

020901 奥さんが実家に帰ったのでひとりで銭湯に行く。帰り道,植芝理一「夢使い」3を入手。

020831 ソウルフラワーの「ラブ・プラスマイナス・ゼロ」がメール便で届く。静かにやかましく抗う歌がここにある。

020829 アイディアメモなるものをつけている。ふと思いついたことがらを書きつけるファイルの束だ。長くて一段落,短いと二語くらいの覚え書きなので,そのアイディアは放っておくと発展せずに散乱するばかりである。いま,散乱したメモを前にして一貫した主張を紡ぐべく奮闘している。そう言えば岡田美智男さんが「口ごもるコンピュータ」か何かで述べておられた。アイディアプロセッサを使うと,項目間のつながりがうまくいかず,単にアイディアを並べただけの文章になりやすい,と。それをいま実感している。これを防ぐには,書き出しでプロットを宣言しておくとよいだろう。読み手にとっての先行オーガナイザであると同時に,自分にとってのメモにもなる。あ,ここにもメモが。本当にメモだらけだ。

020820 コンロと換気扇まわりの掃除,布団を干し,洗濯。外は快晴,だが気温思うほど上がらず,過ごしやすし。鳥越信「子どもの替え歌傑作集」すぐに読み切る。「タンタンタヌキノキンタマハ~」という歌のメロディは聖歌(賛美歌ではなく。宗派が違うらしい)に由来するとのこと,面白い。網羅と言う割には考証がしっかりしていない。歴史的調査とプロセス分析の必要性を痛感。今日〆切の書類を一つ忘れていたことに気づき,慌てて学類事務に電話。

020817 大学時代のサークルの仲間が集まって飲む会の幹事になった。場所を,神保町の三省堂下にあるビアレストランに決めた。というのも,早めに神保町へ行っていろいろ本を物色しようと思ったので。うんざりするほど買った。中村とうよう「ニッポンに歌が流れる」,鳥越信「子どもの替え歌傑作集」,高橋康也(編)「声と身体の場所」,ドゥルーズ「スピノザ」,バフチン「バフチン言語論入門」「マルクス主義と言語哲学」,酒井直樹「過去の声」。飲み会はそこそこ盛り上がっていたのではないかと思う。ところが2次会でお湯割りを飲んだ後が大変。ころりと酔いつぶれ,植え込みに吐き,駅で戻し,同じ方向に帰る後輩に介抱されながら秋葉原のカプセルホテルに結局泊まることに。いやはや齢二十七にしていまだ気持ちよく酔う術を知らぬ。女房には呆れられた。アマゾンからは野本和幸・山田友幸(編)「言語哲学を学ぶ人のために」,山梨正明「認知言語学原理」,それに大工哲弘の歌う「ウチナージンタ」が届いてた。もう酒は飲まぬと三日空けず飲み,お粗末。

020808 風が部屋の中を通り抜けて涼しいので一日中家にいた。クーラーにはあまり頼りたくないのだ。そんな中でレイブ&ウェンガー「状況に埋め込まれた学習」を読みおおせた。業界的にはお恥ずかしいことだが初読である。LPPという考え方について,エッセンスはあちこちで見ていたので,なかなか大元に手を着けずにいた。それが,思うところあって手にしてみると,エッセンスが並大抵でない基礎の上に打ち立てられていることを知る。エッセンスはあくまでも氷山の一角に過ぎず,それでは考え方をつかんだとはとうてい言えないことを思い知る。たとえば,LPPがある種のマルクス主義的歴史観の上に成り立っていること。参加していく「共同体」という概念については,実はまだ本書の段階では明確になっていなかったこと。ナラティブと実践と学習の関係について,すでに大枠をまとめ上げていたこと。などといったことは知らなかった。そんな中,練馬区南大泉のアズママガジン社から産直アズママガジンの2巻が出るとのダイレクトメールが届いた。宛名が手書きだし,どことなく見たことのある書体なので,もしや吾妻ひでお先生ご本人の直筆ではと内心喜んでいるのだが,はて。

020806 ひとりで実験室の片づけ。3人同時に書き起こし可能なまでになんとか整理した。帰りがけ,Penという雑誌に東京と大阪のアイリッシュパブ特集が載っているというのでそれを入手しに本屋へ。もちろんそれっきりではおさまらない。手頃なところで平凡社ライブラリーの棚をざっとながめる。その中から小泉文夫・團伊玖磨「日本音楽の再発見」,黒田亘(編)「ウィトゲンシュタイン・セレクション」を購入。おお,ユリイカが島うたを特集しているではないか。もちろん買う。

020805 書籍部で全日本広域道路地図とBILINGUAL MAP OF JAPANを買う。アイルランドでお世話になった人へ贈り物にする。ついでに藤井貞和・エリス俊子(編)「創発的言語態」も買う。鎌田修「日本語の引用」読破。これは文法論ではないな。

020730 朝日新聞の天声人語で,高橋康也さんの逝去を知った。びっくりしてここ一週間の新聞をめくるが,訃報はない。気になってウェブをさまよったあげく,6月24日に亡くなられていたと分かった。そのころちょうどアイルランドにいたので耳に入ってこなかったのだろう。本棚の奥にしまいこんだ高橋康也「ノンセンス大全」を引っぱり出し,ながめた。高校生のぼくはこの本を古本屋で買い,読みふけっていた。今でも付箋がびらびらとつきだしている。たとえば7章「詩神としての少女」によって,はじめてキャロルとジョイスの近さを知った。また,キャロルを評したこの部分。「ジャバーウォックが妄語・騒音・混沌だったとすれば,スナークは言語そのものを否定する《沈黙》である(p.117 u)」。ジャバーウォックは「鏡の国の-」,スナークは「スナーク狩り」に出てくる怪物である。今は分からずとも,噛みしめておきたい。

020729 帰りがけにふらりと寄った近所の本屋で斉藤政喜「シェルパ斉藤の東海自然歩道全踏破」を買う。斉藤さんの処女作を文庫化したものらしい。文中,「一人暮らしのぼくは…」などと出てきたので,すわ離婚したのか?と驚いたが,独身時代のころの話だった。

020720~28 大阪大学で日本語教育を研究している人たちとともに大阪・箕面にて合宿。帰りの足で今度は岐阜・揖斐川町へ。芸術家の川俣正さんとゼミ生が集まり,幼稚園の庭に秘密基地を園児や親とともに作ろうというアートプロジェクトに参加する。と言ってもひたすら傍観者に徹するだけだが。基地製作も押し詰まった27日に,川俣さんはじめ宮崎清孝先生と茂呂雄二先生,豊田市立美術館のキュレーター青木さんらによるシンポジウムがあった。そこで買った「Tadashi Kawamata Work in Progress: Project in Toyota City」。Work in Progressということばに,息が吹き込まれたような気分。「進行中の作品」とは,ジョイスが執筆中の「フィネガンズ・ウェイク」に付けた仮題で,断片的な雑誌掲載時に用いられた。確かに,川俣さんのプロジェクトも,フィネガンズ・ウェイクも,終わりがない。むしろプロセスを生成する装置として機能し続ける。

020714 引き続き,読みやすそうなのから片づけてる。加藤典洋「言語表現法講義」。そう,書くとは脳から手への一方通行ではない。逆に,「書くことを通じて何事かを知る(p.13)」のでもある。みんなが守るべきモラルと,個人が守るべきマクシム→デカルト。桜玉吉「幽玄漫玉日記」6巻と明和電機「地球のプレゼント」が届く。そーかー,玉さんまた鬱かー。

020713 たまっている本を読む。河合隼雄ら「声の力:歌・語り・子ども」を手に取った。何ということのない,小樽で開かれたシンポジウムの記録であった。語り口調そのままなので読みやすく,2時間くらいで読み終えてしまった。歌や声の持つ力を再認識しようという動きは最近になって目に見える形で現れているが,「なぜ?」という問いのないまま対症療法的にもてはやされている感がある。「小泉さんならやってくれそう」という感じ。なぜ小泉さんがいいのか,なぜ歌がいいのかを問わねばならない。ところで,この本を読んで,谷川俊太郎の息子が作曲家だということを知った。

020707 摂氏17度の国から27度の国へ舞い戻った。月並みな言い方だが,皮膚にまとわりつく暑さに嫌気がさす。往復の機内で読んだウィリス「ハマータウンの野郎ども」だが,これで初めて,チップというものの持つ意味が分かった。要は,働きたくないのである。ただそこに立ってさえいれば,とりあえず月給はもらえる。それ以上の働きをするのは,サービスの見返りとして渡されるチップがあるがゆえなのだ。働くことが自我の一部となり果てている人間にとって,これはひどく怠惰なことと映るかもしれない。しかし,ウィリスが指摘するように,働くのは生活費を得るためなのであり,それ以上でも以下でもない。働きながらも,放埒な自我を満足させるべく,冗談を言い合ったり,悪ふざけをしたりする。このような伝統が肉体労働のみならず,サービス業にも受けつがれているがために,月給以上の働きを要求するのにチップが要るのではなかろうか。不思議なことに,チップの習慣はアイルランドにはない。

2002年前半の日記より

020620 G. Lakoff & M. Johnson “Philosophy in the flesh”が遅れて届く。

020619 デジカメを買った。Canon PowerShot G2(中古で5万5千円也)。この中途半端さがたまらない。H.H.Clark “Using language”も届いた。

020616 ぼくらの結婚をお祝いしてくれる会に出席。お久しぶりの顔もちらほらと,楽しいひとときでした。参加してくれたみなさん,企画してくれたみなさん,どうもありがとう。また次の機会に。次?

020613 旅行準備に忙殺。ボルヘス「伝奇集」届く。「バベルの図書館」「記憶の人・フネス」など,話には聞いていた短編が読めて嬉しい。

020610 体中がだるい。出雲の神の御前にて,畏れながらお誓い申し上げたからには,偕老同穴共白髪,幾久しくよろしくお願いいたします。さ,これから旅行の計画を立てよう。

020605 久しぶりに中古書店にふらりと立ち寄る。とり・みき「遠くへいきたい」1を入手。

020602 人生の一大事の打ち合わせのため飯田橋。時間があいたので本屋へ。芦奈野ひとし「ヨコハマ買い出し紀行」9,鯨岡峻「<育てられる者>から<育てる者>へ」を衝動買い。あと一週間。「僕の夢や幻想やイメージは,往々にして凡庸だと思う。現実が侵入してきて初めて,おもしろいものに変化していくんだ。」-テリー・ギリアム

020528 先週から火曜日には,つくば市が協賛して開かれる家庭教育学級に保育ボランティアとして参加している。今日は9ヶ月と10ヶ月の赤ん坊をあやしてきた。普段は4歳以上の子どもとかけずり回って遊んでいただけに,だっこになかなか慣れない。加藤典洋「言語表現法講義」,田尾雅夫・若林直樹編「組織調査ガイドブック」,イアン・クリスティ「映画作家が自身を語る:テリー・ギリアム」がアマゾンから届く。

020526 すごい読書量ですねと,ここを読んだ人から声をかけられるのですが,全部を全部読み果せているわけではありません。たいていは棚の中で冬眠しています。しかし,本には絶版という運命があります。特にわたしの読みたいと思っているような類の本は,まず間違いなくベストセラーにはなりません。初版一刷で消えてなくなるものも多いのです。そんなわけで,わたしは惜しみなく本に金を注ぎ込みます。こうした態度や行動を「保護」と言います。また,そういう属性を持つ人をビブリオマニアと言います。今日保護したのは,ジョン・グラット「アイリッシュ・ハートビート:ザ・チーフタンズの軌跡」,川俣正・ニコラス・ペーリー・熊倉敬聡「セルフ・エデュケーション時代」,ダイアナ・ブリアー「アイルランド音楽入門」。Emmeのアルバム「yoy asa」も。これ,いいです。おおたか静流,RIKKIの声に涙する者は,Emmeにも心うちふるえましょう。

020523 加藤秀俊「取材学」。1975年初版の本だ。27年前である。年がすっと出てきたのは,わたし自身が75年生まれだから。いままではなかば我流で保育園の先生や領域の違う大学院生にインタビューをしてきた。そのたびに,自分の話し下手,聞き下手にいらだっていた。これでは話をするあちら側も迷惑である。しかしインタビューの方法というのは,通常の認知系心理学者要請カリキュラムには含まれていない。また,臨床心理は対話技法に重きを置く分野だが,わたしにはちょっと専門的すぎる。というわけで,インタビューの技法を自分で調べて身につけるほかないかと,まず手始めに上記の本を注文して読んだ。指摘されていたのは,前もってインタビュイーについて調べておくこと,質問を用意しておくこと。何より大事なのは,対話する構えだ。それには「間」の取り方にも気をつける必要があろう。目からウロコは,本の索引を「情報をコントロールする集中センター(p.53)」と形容していること。確かに,日本の出版業界では索引がおろそかにされすぎている。書籍の検索はコンピュータが仲立ちしてくれるのでとても便利だが,ある本の中のある語を探すというのは,やはり索引でないと。どんな本にも索引を付けよう。

020518 バフチン「ドストエフスキーの詩学」届く。心理学的バフチン研究会発足へ向け。瀬田貞二「幼い子の文学」読了。心に残るくだり。「人間というものは,たいがい,行って帰るもんだと思うんです。(p.7)」「私は童唄を保存し,普及させるのには三つの段階があると考えています。まず第一に,学問的な集大成がなくちゃならない。次に,大人向きのいい選択の童唄集が出て欲しいと思います。そして三つ目に,そういうものを経て子ども向きの童唄の絵本が作られれば,これはいいものがこしらえられると思うのです。(p.89)」

020512 いくつかの仕事が終わって人生の一大事への心づもりも出来かけた日曜の午後,座布団を干していると,宅配便のおっちゃんから荷物だよと下から声をかけられる。アマゾンからの荷物はいつもこのおっちゃんが届けてくれるのだが,たいてい平日の昼間に来るし,こちとら日中は大学にいるしで,結局何度も足を運んでもらう羽目になる。今日なぞ,さすがに日曜はいるなとイヤミを言われる始末。ははは,すみませんねと受け取りにサインをしてバタンとドアを閉める私。しかし何にせよ,新しい本を手にするときのこの嬉しさ。とっときのギネスを開け,パイントグラスにそそぎ込み,ひとり杯を傾けながら本をぱらぱらとめくる。BGMはAltanの”The Blue Idol”。これも一緒に買った。いきなり一曲目からポール・ブレイディの声がして仰天。8月の来日が楽しみ,チケット買おうかどうしようか。獲物は,長田弘・高畠通敏・鶴見俊輔「日本人の世界地図」,瀬田貞二「幼い子の文学」,窪園晴夫・本間猛「音節とモーラ」,河合隼雄・阪田寛夫・谷川俊太郎・池田直樹「声の力:歌・語り・子ども」の4冊。ジョイス「ダブリン市民」読了。いまになって通読したというのも,お恥ずかしい限り(だいたいフィネガンズ・ウェイクから読み始めているというのだから我ながら呆れる)。そうそう,瀬田貞二さんと言えば,例の指輪物語の翻訳者ということで僕の中では通っている。戸田奈津子さんは件の映画でアラゴルンの異名たる”Strider”を「韋駄天」と訳していた。瀬田訳は「馳夫(はせお)」。どちらがいいかというと,やはり馳夫なんだなあ。

020504 小泉文夫編「わらべうたの研究」楽譜編・研究編が届く。代引きで8000円也。巷に溢れた下らない本が平気で三千円前後の値を付けているのを考えると,これでいいのかと心配になるほど,安い。

020501 指導教官から本を多数貰う。ベイトソン「精神と自然」,寺村秀夫ら「ケーススタディ 日本語の文章・談話」,綿巻徹「ダウン症児の言語発達における共通性と個人差」,池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」,石坂啓「赤ちゃんが来た」,河村明子「この人のこの味が好き」。大島豊監修「Irish Music Disc Guide」これは本屋で買った。池波正太郎の本は文庫なので手軽に読んでいる。そう言えば,中に書かれていた神田の藪蕎麦は,その前を通りがかったことが一度だけあった。そのときは敷居が高そうで入らなかったが,これを読んで酒を飲みに行ってみたくなった。

020426 学振の書類作成中。よく引用する本を今までは図書館で借りていたのだが,書き込みができないので,とうとう書籍部で買う。梅本尭夫「子どもと音楽」。梅本は,「子どもにとって音楽とは何か」という問いに対して,逆に「音楽にとって子どもとは何か」とも問うている(p.4-5)。それと関連して,「音楽はどこにあるのか」とも問うべきだろう。なぜならば,音楽とは当然ながら無為自然な物質ではなく,人の手によって歴史的・文化的に形成されてきた,「音」のひとつの使い方,あるいは受け止め方であるからだ。音楽のある環境を作ってきたのはまぎれもなく人々の歴史であり,そうした環境にあってはじめて子どもは音楽を知るのである。そうすると,たとえば「わらべうた」の理解の仕方もぐっと面白くなってくるはずだ。その意味で小泉文夫「音楽の根源にあるもの」が示唆するところは大きい。小泉は「わらべうたはどのようにして育ってきたか」という書中の論文において,3つの問いを立てている。(1)わらべうたを伴わない遊びが普及する状況にあって,子どもたちの間でわらべうたの存在はどう変化しているか? (2)幼稚園・小学校など組織的教育の場で,大人がわらべうたや唱歌を与えている状況において,子どもたちだけで流通するわらべうたの存在はどう変化しているか? そして(3)わらべうたが変化しつつも生き長らえるうちにあって,長く生き続ける核となるような要素とは何か?本書は1977年が初版だが,問題にはまだ誰も手を着けていない。そしてこれが自分の学振のテーマとなる。

020423 今年度から筑波大学では交通安全会なるものが発足した。何をするかと言えば,要は,自由駐車場を一律有料化しようというのだ(件の安全会は資金の受け皿)。学内を走る自動車が急増する中,雨の日などは駐車場があふれかえり,せっかく仕事で車で来た人が停められないといった事態が起こっていた。それをなんとかしようと,一昨年あたりから学内委員会が発足してこのような結論になったわけだ。希望者は抽選で(!)駐車場の年間パスを買うという形になる。ゲート付き駐車場が10500円,ゲート無しが4400円。僕はゲート付きの方が当たった。というわけでついさっき郵便局へ振り込みに行って来た。10500円。静かに語っているが,内心は煮えくり返っている。万言労してもこの憤りはつきないだろう。この憤りとは,点字ブロックの上に自転車や自動車を停めた場合に視覚障害者が出会う憤りと,おそらく似たものではないか。対策はしてるんですけどねえ,と,困った顔をする事務方。「対策」とは,すべてうまくいく方法を編み出すことであり,一方の言い分を通すということではないのだぞ。この中途半端な福祉。おのれ宅悦,この怨みいずこへ晴らしてくれん。というわけで綾部恒雄(編著)「文化人類学15の理論」,遠藤健治「Excelで学ぶ教育・心理統計法」を買う。よかったね,平和な人間で。

020422 人の心について考えるということは,ただ単にアタマの中だけについて想像すればよいということではない。人が何を食べ,どういうものを身につけ,何を話し,何を聞き,何を見るかといったことについて深く考えることでもあるのだ。そしてまた,どういうところに住むかという問題も心と深く関わる。近年の説では,猿から人間への進化を引き起こしたのは,住環境の変化に適応する必要性だったという。身の回りに何があり,何を便利なものとして選び,そして暮らしやすいようにどう改変していくか。こうした住環境の創造という営みが,現在の私たち人間の心を作ったとも言えるのである。というわけで本屋の棚で手にした,渡辺仁史(編著)「建築デザインのデジタル・エスキス」。エスキスとは仏語(esquisse)で下絵のこと。この本の面白いのは,人間が空間をどう行動するかのシミュレーション結果をQuickTimeなどで映像化したサンプルが同梱のCD-ROMに納められていること。ついつい見入ってしまう。また,添付のCADソフト(体験版)で実際に自分でも建築デザインのまねごとができるようだ。

020421 雨の日曜日,わたしは世帯主となり,妻持つ身となった。紙の上の出来事にすぎないとは言え。結婚とは異文化接触だ,と言って研究をしている若手心理学者と先日の学会で会った。その視点は希有なものだ,とみな感心していた。世界の文化-そこには負の文化も含まれていたのだが-が抗う間もなく上陸し,落下してきた地,長崎は象徴的である。その長崎は今,畳の部屋で寝ころんで新聞を読んでいる。世界を一望させる新聞というインスクリプションを。この視点の逆転を分析しなければならない。ところで,栩木伸明「アイルランド現代詩は語る:オルタナティヴとしての声」を読み終えた。オングは「声の文化」「文字の文化」を対比させたが,声の文化にも一次的なもの,二次的なものがあることも同時に指摘している。重要なことは,これら文化は「道具」の存在を前提として同時代に同一地域で同一人物の中にすら併置されているということだ。エンゲストロムの言う「レンチ・キット」とはそのような状態を指す。

020420 静かな土曜の朝。ペリカン便で吾妻ひでお「クラッシュ奥さん」2,Cope and Kalantzis “Multiliteracies”がアマゾンより到着。指導教官から薦められた,シーガル「子どもは誤解されている」読了。子どもの認知発達研究を開拓したピアジェとその後継者たちの実験方法について,語用論的な視点から批判を加えたもの。たとえば子どもに2つのビーカーに入った水を見せる。ビーカーは同じ形,水量も同じ。続いて,底面積が小さいが背は高いビーカーと,底面性が広く背は低いビーカーにそれぞれ移し替える。ここで子どもに,どちらの方が水の量は多いかと尋ねる。すると子どもは,同じ量だった状態を見ていたにも関わらず,「こっち」と一方を指さす。これは通称「保存課題」として知られるもので,この結果から,ピアジェ派心理学者は,子どもは量の保存ができずに主観的な見かけに判断が引きずられてしまう,ひいてはアタマの中での操作が困難だ,と解釈してきた。ところが,われわれが日常的に行なう会話では,こうした質問は何か特別な意図があってなされたものだと判断してしまうようなものだ,というのがシーガルの指摘だ。シーガルはこのような実験場面で子どもが失敗する原因について,5つのあり得る候補を出す。(1)不確かな場合は反応を変更する(大人はなんでも知ってるはずなのに,質問をするということは,きっと自分の考えていること(それが実は正解かもしれないのだが)を越えた何かがあるのかも…,と子どもは思う),(2)不誠実さ(実験がいやなので,適当な答えを言って切り上げようとする),(3)面白すぎる課題(大人がこんなばかげたことを聞くなんて,きっと子どもっぽい答えを期待しているに違いない,と子どもが思う),(4)実験者への信頼(大人は間違ったことや子どもを害するようなことを言ったりしたりしない,と子どもは考える),(5)使われる言葉(「同じ」という言葉の意味が,大人と子どもとで共有されていない)。実際に,これら(1)~(5)の可能性を排除した実験をした場合,子どもは適切な回答をするようになったという。被験者は実験者の思惑の内側で行動しないという,言われてみれば実に当たり前なことだが,それを再認識させられた。

020419 エンゲストロム「拡張による学習」を読んでいる。一度読み切って,レジュメを書かねばならないパートをもう一度,詳しく読み返している。なぜこれを出版当時(日本語版初版1999年)に読んでおかなかったかと悔やむほどに面白い。この考え方を知っていれば修論ももう少し違った書き方をしていただろうに。だがしかしこの面白さは4年前の自分では分からなかっただろう,とも思う。道具を作る。その道具の新しい使い方を考え出し,みなで共有する。道具が増加し,バリエーションが生まれ,交換され,使われる。流通を支えたシステムに乗り切らない異形が道具のバリエーションのなかに生まれる。そこからまた新しい状況が生まれる。エンゲストロムの言う活動形態の歴史的移行とはこのように概略できる(んだと思う)。言語発達の場合,社会的矛盾としてのパロディが移行の原動力となるような気がするのだが,どう例証すればいいのやら。

020417 またまた。プリゴジン・スタンジェール「混沌からの秩序」。最近,発達心理をやってる院生たちの間で「時間」をどう理論に組み込むかが話題となっている。その準備。

020413 来た!ベイトソン「精神の生態学」!どーすべー。700ページ近くあっと。誰か一緒に読まねーかな。

020409 昨日は日帰りで奈良まで行って来たのでまだ疲れがとれないでいる。大阪樟蔭女子大の先生から,森敏昭編「面白思考のラボラトリー」と抜き刷りが送られてきていた。ありがとうございます。最近,就職という二字が背に重くのしかかりつつある。研究ばっかりできるところはないものか。

020405 熊本でやる教心の予稿集原稿を昨日速達で送った。右肩の荷が下りたものの,まだ左肩にでっかいのがある。へらへら笑ってる。くそう,と睨み付けながら,発心でいただいた抜き刷りに目を通す。

020402 新年度の開始にあわせて,マシンも新しくした。とは言え中古なのだが。でも今まで使っていたMebiusよりもいくらか処理が速いはず。そんなわけでDynabookSS DS60Pがこれからのメインマシンとなる。セットアップで一日半つぶれた。

020330 発心終了。さすがに三夜続けて飲むと体がむくむ。部屋に帰るといろいろと宅急便の荷物が。McHugh “Annotations to Finnegans Wake”,それに,Elman “Selected Letters of James Joyce”。意味というものに取り組むために,ジョイスの言語観をその手紙から読み取ってみたいと思う。そのための買い物。吾妻ひでお「魔法使いチャッピー」,吉田類「東京立ち飲みクローリング」もいっしょに届く。

020328 発心2日目。八王子から八高線で箱根ヶ崎へ,そこからバスで所沢キャンパスそばの農協(!)前へ,というルートをたどる。のどかな風景。思いがけず早く着く。拝島から所沢経由で小手指へというルートを勧められたが,そっちにせずによかった。ポスターを見たあと,ついつい出版社ブースに足が向かう。佐藤郁哉「フィールドワークの技法」とウサギのパペットを買う。大学院に入って結構な数の学会に参加してきたが,最近,身の処し方が分かってきた。ノートPCは突発的にできた暇な時間に仕事するための必需品。

020327 発達心理学会1日目。早稲田の人間科学。所沢。遠い。出版社のブースをまわって,いろいろ漁る。「質的心理学研究第1号」,エンゲストロム「拡張による学習」,無藤隆「協同するからだとことば」,西阪仰「相互行為分析という視点」,茂呂雄二編「実践のエスノグラフィー」。夜はしこたま飲む。そんな学会。

020322 今年はじめて大学会館書籍部に足を運ぶ。このとき,財布に1万円札なぞあるともういけない。安心してしまうのだな。気がつくと手には,喜多壮太郎「ジェスチャー」,多賀厳太郎「脳と身体の動的デザイン」,縄田和満「Excelによる統計入門」「Excel統計解析ボックスによるデータ解析」,ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」があった。来年度,学類生に統計的発想と手法について手ほどきをしなければならない。Excel使えるのなら,それが便利だよ。なにもわざわざSPSSやSASを買わんでも。(負け犬の遠吠え)

020321 ホルクイスト「ダイアローグの思想」をオークションで入手。でも読む暇無し。

020320 本ネタではないが,最近感動したことをひとつ。カシオがモバイル製品用に小型燃料電池を開発したらしい(http://www.casio.co.jp/release/fuelcell.html)。記事を読むと,なんだか分からないけど,なんかいろいろいいらしい。いろいろいいのはいいことだ。カシオバンザイ。おれも心理学界の小型燃料電池を目指すぞ。

020318 明和電機社長・土佐信道「魚コードのできるまで」買う。ゴミ拾いはぼくも好き。

020317 山形→長崎→箱根と,日本中を旅してまわった2週間であった。行き帰りの道中,さぞや本を読めたろうと思うのだが,これがまた情けないことにパラパラめくる程度で終わってしまっている。田中克彦「言語からみた民族と国家」は,レーニンとスターリンの抱く民族の定義を言語学者のカール・カウツキーから洗い直すという論文を含む選集。要は,国境や文化風俗ではなく,同一の言語を話す人々を民族とみなすという態度が,カウツキーからスターリンに引き継がれた態度のようだ。エスニシティと言語を教育の問題とからめて論じるフレデリック・エリクソンやキャズデンなどを読む際に参考になりそう。箱根では,温泉宿をなかば借り切り,物好きが集まってバフチンばっかり読んでいた。伊東一郎訳「小説の言葉」。言葉はすでに二重であり(社会的構築物としての記号,ダイアローグ),したがって転倒する潜在性を抱えている(カーニヴァル)。バフチンのキーワードはこのような一貫したまとまりのなかに点在するようだ。しかし,この転倒とは,絶対的な権威ある声と弱い市井の声とを同じ位置に並べるという態度と結びつきやすく,それゆえにバフチンはポストコロニアルやフェミニズムと連結しやすいのだと思うのだが,どうだろうか。

020306 東京駅でなくしたと思ってた切符が新潟駅で出てきた。拾ってくれた方に感謝。おかげで新しく買った切符代を払い戻すことができる。そんなわけでヴィゴツキー(柴田・根津訳)「芸術心理学」なんとなく読了。ヴィゴツキー若かりし時の論文集だが,その後の「思考と言語」に続く核心的なアイディアがすでに見ることができる。特に,近年はとみに相互補完的に読まれるバフチンとの近さが,この論文集においてはよく見える。

020303 またもや庄内,三川へ。行きの新幹線に乗る途中,どこかで帰りの切符をなくしてしまう。ひさびさのミスに落ち込む。落ち込みながらも,水村美苗「私小説from left to right」読了。むかし,ちょっとそこまで,というわけにはいかない,アメリカがあった。人は見かけで判断すべきではないと言うが,そんなのは単なる詭弁にすぎない。問題は,見かけで判断されるなかをどのように生き抜くか,ということだ。肌の色は,手っ取り早く判断できる「見かけ」である。女三界に家なしと言うが,やはり女でなければ書けない(無論それは社会的にそのようにし向けられているためなのだが)小説はあるものだ。

020225 一年間続いた学類生のインストラクター業務が今日で終わり。へとへとになって家に帰ると,机の上に小さな包みがおいてある。開けるとそれは,キャロル・吉田健一訳「不思議の国のアリス」だった。吉田健一の筆による訳ということで取り寄せた文庫本。なかをパラパラとめくると,キャロルのことば遊びは懇切丁寧にカッコ書きで説明されているだけで,英語のことば遊びを日本語のことば遊びへ移し替えるといったような作業はまったくなされていない。自分としては,柳瀬尚紀の「海亀フー」とまではいかなくとも,日本語でクスリと笑える一工夫があると面白いのだが。そういえば前日,別に二冊の本が送られてきていた。鎌田修「日本語の引用」,高橋英夫「花から花へ:引用の神話 引用の現在」。引用研究を本格化させる,そのための布石だ。

020214 新宿へ。新宿の駅まわりを歩くのは実に久しぶり。平日の昼だというのになんだこの人の波は。自分にとっての「歩く」とは半径100m以内にだれも人のいない空間を自分のペースで思う方向へ移動することなのであり,それが阻害されると途端に腹立たしくなる。というわけで新宿は嫌いだ。だが用事があるので来た。用事と用事の間に少し時間が空いたので紀伊国屋へ。サピア「言語」,それにバフチン合宿にそなえ「ミハイル・バフチンの時空」を買う。何もこの本を今手に入れなくてもよいのだが。

020212 アマゾンからCox&Lightfoot(Eds.) Sociogenetic perspective on Internalizationが届く。Nicolopoulouが書いた一章を読みたいがために6000円も出して買った。きっかけはそうだが,パラパラめくると面白そうな論文がいくつかありそう。本を買うというのは予期せぬ出会いでもある。コピーはイカンよ,コピーは。

020210 注文済みの本数冊届く。近藤信子・柳生弦一郎「にほんのわらべうた」,DeMusik Inter.編「音の力 沖縄」。最近,民謡関係の本をまとめているのは,上手くすれば来年度某企業から研究費がつくかもしれない研究のため。全国の幼保施設や家庭に行き,子どもたち同士で伝えあう歌や唱えことばの実態を探るというもの。どんどん正統心理学から離れていくような気がするが,このテーマを心理学でやるところに意味があるのだ。

020209 十日ばかり間を空けたのは,ここんとこ忙しくて,本を読んだり買ったりしていなかったせい。こういうとき,本にまつわることだけ書こうと決めたのは我ながら英断だったと思う。ならば,今こうして書いているのは,本を買ったから。成城学園で月一度開かれている読書会へ行くも,開始までは十五分ほど早く正門前に着く。成城の門の前には古びた本屋が一軒ある。構えは小さいながら,揃えはさすが,文庫や文系の本を中心に壁の棚一面に並んでいる。そこから手に取る三冊。滝田ゆう「泥鰌庵閑話」上下,大藤ゆき「児やらい」。滝田ゆうの聴覚はいったいどうなってるんだ。児やらいは,教育のT先生が主催している研究会で知ったことば。たとえばRogoffがユカタン半島での子育てを研究しているのと,日本の子育ての伝統とを,比較するきっかけはないかと買った本。

020131 庄内への道すがら,添田唖蝉坊・添田知道「演歌の明治大正史」と田中克彦「チョムスキー」を耽読。壮士演歌は初期こそ明治の新しい国造りの幕開けに欣喜雀躍していたものの,現在に通じる政治の貧困(貧困などはない,そもそも政治は「なかった」のだから,と知道は言うが)からその路線に見切りをつけ,大衆迎合の英雄潭や戦争鼓舞,それにあきらめの嘆息へと流れていった。このような流れである。知道は壮士演歌の子孫を繁華街の流しに見る。思えば北島三郎も流しであった。田中のチョムスキー批判は思想の根本の突き崩しである。文章に癖があるが,基本的には同意できる。

020126 明日からの山形出張へ向けて準備も終わり,ふたりでかきのき亭へ夕食を食べにつくばへ。6時からの予約で時間が余ったので友朋堂へ立ち寄り物色。往復の汽車のなかで読めるよう,田中克彦「チョムスキー」,「別冊国文學 現代日本語必携」,「国文學 音楽:声と音のポリフォニー」,植芝理一「夢使い2」を買う。かきのき亭はどの皿もはずれがない上,いつ行ってもほかに客がほとんどいないので,静かに食べられて良い。

020121 あわただしい一週間が始まる。原稿のために大学近所の中古書店へ。原文を引用するために宮澤賢治「風の又三郎」が欲しかったのだ。ジュニア文庫のような装丁で安売り100円だった。ついでに隣に並んでいたキャロル(中山知子訳)「不思議の国のアリス」と斉藤政喜「シェルパ斉藤の行きあたりばっ旅5」まで買う。しめて300円。やっぱり文庫はいいな。

020119 こともなし。アマゾンからWells The meaning makersが届く。原稿1/3出来。ちまちまと目につく未読本を数頁めくっては元に戻す。青柳悦子の「境界児」,「出生型・移植型」の概念は使えそう。

020117 どうも原稿が進まず,ここ二三日イライラし通しだ。先ほどなど電話口で思わず声を荒げてしまった。むろん電話の向こうの相手に非があったから声を荒げたので,誰彼かまわずどなりちらすまでにはいたっていない。平常心が必要だ。そんなときには本屋に行くに限る。で,東浩紀「存在論的,郵便的」,土田知則・青柳悦子「文学理論のプラクティス」を衝動買い。東浩紀さんはずっと気になっていた人。何年か前にも確かアクアクに来てトークをしたのではなかったか。最近文学理論が面白くてぐいぐい読んでいる。デリダ「ユリシーズ,グラモフォン」を読み終えた(そういえば,ジョイス=デリダにとって,「電話」はキーワードだ)。今書いてる原稿も,心理学と文学のようなテーマだから,心理学者が文学理論にはまっても構わないと言えば構わないのだけれど。

020112 Tobin Making a place for pleasure in early childhood education,筒井康隆編「現代世界への問い」「方法の冒険」がアマゾンから届く。後の2冊は,岩波から出ている21世紀文学の創造というシリーズの配本。最近,文学の手法が非常に気になる。ジョイスとプルーストが,人間の内面,心の動きを文筆の対象として描き始めたのが20世紀のはじめであった。それからもうすぐ100年が経つ。フィクションがリアルを越えることはできないと叫ばれ始めている今,何を書けばよいのか。それを,主に文学界の内部の人々が中心になって探っていくというシリーズ。期待している。

020111 山形県鶴岡市は寒かった。今月末の調査の下見と打ち合わせを兼ねて,指導教官とふたりで役場やら保育園やらをまわり,名刺をたくさんばらまき,同じ数だけ名刺をもらってくる。先生を一足先に帰して,自分はふらふらと特急が来るまでの時間を持て余し,HARD OFFとBOOK OFFをぐるぐるとめぐる。買いまくった。ジョイス(安藤一郎訳)「ダブリン市民」,キャロル(柳瀬尚紀訳)「不思議の国のアリス」,山根一眞「メタルカラーの時代5」,竹田青嗣「ハイデガー入門」。以上各一冊百円也。無藤隆編「ことばが誕生するとき」,唐沢なをき「電脳なをさん2」,川原泉「小人たちが騒ぐので」。だが,いちばんの掘り出し物は,東京バナナボーイズのアルバム「BEST ONE」。

020109 SFUのアルバムの厚いブックレットをパラパラめくると,明治から大正にかけて辻々にあらわれた演歌師について書いてあり,その存在が気になり始めた。添田唖蝉坊・添田知道「演歌の明治大正史」を大学の中央図書館から借りてくる。演歌とは,現在大衆に膾炙するところの惚れた腫れたではなく,演説歌,つまりは歌う瓦版である。世相を斬ったおかしみのある歌詞を作り,楽器片手に辻に立ち,吟唱する。歌詞の書かれたビラは1枚一銭。昭和のはじめ,ラジオの登場,リテラシーの普及とともに姿を消したが,その歌はいまだに力を持っている。歌の持つそうした力を信頼し,演奏するのがSFMSだ。この本,日本の古本屋で検索すると,全集6冊組2万円也。むちゃくちゃ欲しい。

020106 昨晩行ったカラオケに,SFUの曲が入ってた!「青天井のクラウン」1曲だけだけど,嬉しくて,ついつい歌ってしまった。案の定,ほとんど誰も知らないようだったけれど,気持ちよく歌う。それで,調子に乗ってサワーをがぶがぶ飲んでたら,今朝から気持ち悪い。それでも風呂入ったり布団干したりメシ作ったりしてると,なんとか持ち直してきた。ふと本棚からソウル・フラワー・ユニオン「国境を動揺させるロックン・ロール」を手に取り,読み始めた。自分は,気に入った音楽にたいして素朴な信頼を寄せているのだが,気に入るかどうかの基準は,作り手がマーケットに媚びていないかどうかだ,ということがこの本を読んで気がついた。たとえば,いわゆるケルト・ミュージックのコンピレが氾濫した時期があったが,あれは,聞く気になれなかった。逆に,KILAは何の気なしに買ったのだが,猛烈に浸ってしまった。やってる人たちも聞く人たちも,コラボラティブに音作りを楽しんでる,って姿がいいなあ。

020102 3月が楽しみだ。一本の映画がこれほど楽しみなのは久しぶり。あの,トールキン「指輪物語」である。テレビで連日CMを打っているので,さわりの映像を目にしたのだが,イメージの美しさは原作のそれを損なっていないように思われた。夢中になって読破したのは中学時代だから,もうすでに細部は忘れてしまっているのだが,原作を覆う重苦しい繊細さ,清廉な暗さの感覚はいまだに取り戻せる。そういえば当時,読みながらどうしても頭に描くことができなかったのが,「丘」の描写だった。木の精エントが列をなしてドットコドットコ丘の向こうから主人公のいるこちらに進軍してくる,というくだりがあったのだが,丘の向こうが見えるものだろうかと不思議に思っていた。それが,アイルランドに行って,納得した。高緯度地域,つまりトールキンがイメージしていたはずのイギリスやアイルランドの丘には木が生えていないのである。だからはるか向こうまで見渡すことができるのだ。例の魔法使い少年の話が大ヒットして,世はジュブナイルファンタジー復活の兆しを見せている。本棚には脇明子「ファンタジーの秘密」,赤井敏夫「トールキン神話の世界」がある。後者は読まずに8年ほったらかしの本だ。映画化を機にチャレンジしようか。

020101 正月のうららかな陽光が畳表を照らす午後,昨年末に上野の古本市で買った,文庫版の山根一眞「メタルカラーの時代」1・3・4巻を読む。2巻だけは入手していたので,バラで売ってないかなーと探していた代物。登場するオッサンたちのことばの端々に出てくる単位がまず違う。「万トン」「万ボルト」「サブミクロン」「ン千メートル」これらをぼくは想像もつかない世界だと思ってしまうが,しかしオッサンたちはこれらを具体的に使いこなす。いわば身体化している。この違いはなんだろうか。

2001年の日記より

011231 部屋の大掃除をしていると,玄関からチャイムが。ドアの外には,郵便局のバイト配達員が立っていて,おずおずと差し出す冊子小包がひとつ。開梱すると,だいぶ前に発送済みになっていたはずの,Magolda Creating Conwebcat for Learning and Self-Authorshipが。貼ってあったメモから察するに,どうも郵送途中で誤ってシンガポールに行ってしまい,日本に来るのがだいぶ遅れたようだ。こんなこともあるのだなあと妙に感心する。というわけで今年もおしまい。来年もよろしく。

011223 前日は青山でドーナル・ラニーとアンディ・アーバインのライブ。オーガナイズはSFUのヒデ坊。3時間立ちっぱなしだったが堪能した。ダブリンのおっさんたちの指さばきは偉大なり。その疲れが今日出たのか,午前中に近所の風呂屋に行った後,不覚にも昼寝してしまう。布団のなかでぼやぼやしていると,楽天市場から宅急便が。おととい注文したばかりの,ヴィゴツキー「思考と言語」だった。今年出たばかりの,柴田大先生の新訳だ。とりあえず,「ことば」関係の訳し分けがどのように変わっているのかをチェック。旧訳では,речь→言語,язык→言語,слово→コトバまたは単語だった。それが新訳では,речь→ことばまたは言語活動,язык→言語,слово→言葉または単語となっている。なるほど。

011222 午前中に行く予定だった集中授業をキャンセルして家で論文を読んでいると,Amazonから本が二冊。Wells Dialogic InquiryとCazden Classroom Discourse(2nd ed.)。Cazdenは東大のFさんから教えてもらったもの。この本の第一版はすでに研究会で通読してしまっていたが,「内容が変わっている」とのFさんの話を聞いて買ってしまった。開いてみると,まことにその通り。自分がよく引用する第二章のシェアリング・タイムも,最近の動向をおさえたものになっているようだ。教師自身の工夫についても書いてあるのに感心した。CazdenやMichaelsがデータを取ったのは70年代終わりから80年代初めにかけての頃だった。確かにその頃は,子どもの家庭環境に特有のナラティブスタイルが教師との齟齬を生むことがよく理解されていなかったこともあって,タラタラと話すスタイルに難色を示す教師がいたのだろうが,20年近く経過した今,教師もその辺自覚的になっており,さまざまな工夫を導入している。このようなわけで,80年代のデータはもう限定的にしか通用しない,あるいはいつまでも教師のせいにするのは可哀想だと感じていた(この辺の話は紀要にちらりと書いた)。やっぱCazdenおばちゃんは抜け目ないなー。自分もがんばろう。

011221 そろそろかなーと思い,ウェブをさまよっていると,やっぱり出ていたので,筑波のさんせーどーことゆーほーどーへ。しかし,ない。ないないない。くやしーので,代わりに,コサキン本「4548」と水村美苗「私小説from left to right」をこーた。今度は,筑波のきのくにやことぶっくばーんへ。あった。桜玉吉「幽玄漫玉日記5」。ぱ(ぺ)そみちゃん,かーいーなー。この文体もしんどいなー。

011220 安積ら「生の技法」読了。まがりなりにも教育心理学なるアカデミズムに身を置く人間としては,障害者施設と学校とを等置させて考えてしまう。と思っていたら,「おわりに」で,わずかではあるものの,まさにそのアナロジーが取り上げられていた。ある人間を,資質や社会的価値の不足として囲い込み,教育的配慮,福祉的配慮といったある種暴力的な心配りをもってその関係性をなし崩しにしてしまうこと。この配慮は,不足する者と断定される人間が自由に希望することを抑圧する力を持っている。たとえばある施設では,入所者が電動車椅子を希望しても,実際に許可が下りて入手するまでに十年かかったという。これは「配慮」のなせる結果である。施設もそうだし,学校も,そのような関係性が張り巡らされた空間としてあるだろう。この空間に抵抗し,自立生活を営むのが,この本に登場する数少ない障害者である。ならば,この点から,学校に抵抗し,独自の学習活動を営もうとする者を,単に「登校拒否」「中途退学者」として個の病的資質に還元することはできない。むしろ,積極的な生の肯定として推奨されるべきものとして現れてくるのではないか。無論,ひとくくりに登校拒否者がみなそうだとするのは早計だが,このように考えることで,(当の本人にとっても周囲の人間にとっても論じる者にとっても)自由になれる部分は確かにあるだろう。続いて,立岩真也「弱くある自由へ」に取りかかる。

011215 いろんなところから注文しておいた本が届く。すべて,今読めるわけではない。しかし,こと本に関しては,欲しいと思ったときに買わないと手に入れることはできないと考えている。このような信念が本の衝動買いに走らせるのだ。たとえば。水曜日には,研究会で読む福井直樹「自然科学としての言語学」大修館書店を買っておこうと丸善に足を運べば,知らぬ間に高杉・柴崎・戸田(編)「保育内容『言葉』」ミネルヴァ書房,平山満義(編)「質的研究法による授業研究」北大路書房が手元にあった。家に戻ると,Yahooオークションで手に入れた,波多野完治「最近の文章心理学」それに「教育心理学新辞典」が。土曜日には,JamesのThe Principles of PsychologyとChristian Heath 1986 Body movement and speech in medical interactionが。1週間で7冊,うち研究会で使うのが2冊。1日1冊の計算。しかしぜんぜん読めていない。だんだん自分の性分が恐ろしくなってきた。

011210 先般,ひとつ仕事が終わった。日本語で出版する予定の本に入れるために英語の論文を訳してほしいというもの。たかだか20頁ほどだったが,それでも,商用の翻訳は初めてだったために気を使った。今は先方のチェックを待っている状態。ふと,これを書いている目の前にある新書を手に取る。柳瀬尚紀「翻訳はいかにすべきか」岩波新書。この人から学んだことは数限りない。そも,心理学の道に迷い込んだのも,この人の翻訳からだった。そんなわけで,信頼する文筆家である。その人が,三島由紀夫や二葉亭四迷を持ち出し,「翻訳とは日本語の問題なり。日本語として通用していなければならぬ」と,のたまう。自分の翻訳を見返すにつけ,ただ身を小さくするばかりである。

011209 昨日の「生の技法」は,ラテン語でARS VIVENDI。生→性で思い出したのが,高橋鐵(1953)「あるす・あまとりあ」。ハードカバー版と,河出文庫の新訂版の両方が,書棚の2列目に収まっている。さすがにいまさら通読する気はしないが,ときおりパラパラと眺める。貴重な資料である。

011208 安積・岡原・尾中・立岩「生の技法」を読んでいる。今月,大学院の集中講義に来る予定の社会学者,立岩真也氏があらかじめ読んでおくよう指定した本である。施設は施設性を持つがゆえに施設なのだということがよく分かる。障害者として入所する者は,この施設性を具体的な身体感覚で受け止め,ある者はそれに服し,ある者は反抗する。反抗した者が「自立生活者」として,自らの日々を自らデザインする。自らの手による生活のデザインこそが,人間らしい生き方なのだ。さて,学校は?と,問い返す。子どもたちに生活デザインの余地はあるのか。

011201 アマゾンより,Moll ed. Vygotsky and Education,McClelland&Siegler eds. Mechanisms of Cognitive Development,シュワーブら「初めての心理学英語論文」の3冊が届く。前日にあった飲み会で,英語で論文を書くことが話題になっていたので,3冊目は関心を持って読んでいる。

011129 年末年始の調査に向けて計画書追い込み。それと,来年9月に出る予定の本に載せる自分の分担章執筆と,同じシリーズに書く先生が英語で書いたものの和訳作業が並行してある。来週までにゼミのレジュメを作らなければならないのに。そんな中,ぺらぺらとめくっているのがロフランド&ロフランドの「社会状況の分析」。研究の方法論作りのために,この手の本をまとめて買ったり読んだりしている中の一冊。文中,調査結果が書けない,あるいは書きたくなくなるのはなぜか,その対処法は?というくだりがあった。それによれば,まず毎日書く癖をつけよ,とのこと。そんなわけで,こんな駄文をしたためている。毎日の読書記録とすれば,本も読まなくちゃならなくなるし,一石二鳥か。(書き方のスタイルは某教授とそのお弟子さんたちのをちょっと意識している)

011127 アマゾンからまた本が。Newman ed. 1996 Pedagogy, Praxis, UlyssesとMachan&Scott eds. English in its social conwebcat。前者は,教室活動にユリシーズを導入して面白い授業をしよう,というふれこみだったので慌てて買ったのだが,なんだか寄稿者を見るとみな英文学の先生。その中でかろうじて知ってたのが,キース・ブッカーくらい。しかも対象は高校や大学レベルの授業だという。少しがっかり。後者は,この中の1章だけ読みたくて買ったもの。コストパフォーマンス悪すぎ。

011126 Ninio&Snow 1996 Pragmatic Developmentが古本屋から届く。これでこの間入手したOchs&Shiefferen 1979 Developmental pragmaticsと合わせて語用論関係の本が2冊。語用論とはいったいなんなのか?

011120 またもやラッシュ。オークションで落札した「究極超人あ~る」9巻揃届く。昔持っていたが,売ってしまったのだった。この度,調べたいことがあって買ってしまった。ロッジ「バフチン以後」,桑野隆「未完のポリフォニー」も来る。現在,バフチンのポリフォニーとカーニバル関連の資料を集めている。

011117 オークションにて落札した吾妻ひでお作品集来る。状態非常に好。続けざまクラーク&ホルクイスト「ミハイール・バフチーンの世界」,トドロフ「ミハイル・バフチン 対話の原理」も届く。クラーク&ホルクイストに誤訳発見。p.142「チャンピオン」は擁護者の意だろう。

011116 来週に迫った博論構想発表会の準備をせねばならないが,ブルーナー「可能世界の心理」を読み直している。以前の読書会で読み飛ばした章があったからだ。ネルソン・グッドマン経由で社会構築主義social constructivismに立っていると書かれてあり驚く。原著は1986年!われわれはブルーナーの後塵を拝しているだけか。彼の10年先を行く研究をしたい。

011112 「身体とシステム」シリーズの一冊,高木光太郎「ヴィゴツキーの方法」を読了。しばらく高木節から離れられない。論文では決してできない体言止め。

011108 日心二日目。出版社回りをして金子書房から出た「身体とシステム」シリーズ既刊本3冊を買う。研究法向けに石黒広昭編「AV機器をもってフィールドへ」も買う。