カウンター越しに、コーヒーを注文した。
どこから来たんだ?
日本から。
日本人は何人か来たことがあるよ。今晩そこで演奏するからぜひ来てくれ。宿はどうするんだ。親戚がB&Bをしているからそこに泊まらないか。車で送っていってやるから。
渡りに船とお世話になることにした。車中、お嬢さんのCDを持っていること、以前NHKで特集をしているのを見たこと、などなどを話す。目元が似ているな、そんな感じがした。
国道沿いにぽつりと立つ一軒の家がそのB&Bだった。アイルランドではたいていの場合「B&B」というサインが外から見やすいところに掲げられており、だから放浪していても投宿先はすぐに探すことができたのだが、この家には何もしるしはなかった。
家の中にいたのは、おばあさんが一人と、小太りの中年男性が一人。3人でお茶を飲みながらここまでの行程を説明する。この中年男性氏、オランダから来たのだそうだが、ClannadとEnyaの大ファンだそうだ。自分の部屋を撮った写真を見せてもらったのだが、壁一面びっしりとLeo氏のお嬢さんのポスターが貼ってあった。毎年ここに来ているそうだ。 pilgrimage、そんな言葉が彼の口からついて出た。
北の夏は夜が短い。7時を過ぎてまだ空に明るさの残る田舎道をぽつぽつと歩いて酒場の戸をくぐった。
すでにテーブルは埋まり、さざめきが部屋を満たしていた。オランダ氏はすでにグラスを傾けていた。手招きをするのでその向かいに空いていたイスに腰を下ろす。
Leo氏の演奏は9時半からだという。カウンターでギネスをもらう。およそ2ポンド(当時はまだユーロではなかった)で1パイント。だいたい400円強。日本で飲むと800~900円。なんなんだこの差は(当然酒税である)。
同じテーブルの斜向かいに座った高齢の男性に話しかけられる。
お前は日本では何をしている。
学生であることを言うと、専攻を聞かれた。
サイコロジーです。
はは、アイルランドでサイコロジストをやればずいぶん儲かるぞ。
そう言って男性は杯を空けた。
どうしてです?
これだ、と言って差し出すのは空いたグラス。
アイルランドは飲んだくれが多い、みんなアル中みたいなもんだ、だからサイコロジストが儲かる。そうだろう?サイコロジスト、ペイ!!
そう叫びながら男性は右手を高く掲げ、やがて目を伏せて揚げた手でグラスをつかんだ。掲題の言葉はこうしてこの男性氏から発せられたものである。
やがてLeo氏がアコーディオンを持ってステージに登場すると、いつの間にか酒場を埋め尽くした人々は万雷の拍手で迎えた。
外に出ると半分欠けた月が雲一つない天上から地上を青白く照らしていた。酒場からはまだアコーディオンと歌声、そして喧噪が流れてくる。
遠くに波の音。ここからは海までほんのわずかなのだ。
車も通らない道を、ジーンズのポケットに手を突っ込み、宿へと戻った。
10年経った今、あの夜、Leo氏がどのような演奏をしたのか、実のところあまり記憶にない。しかし、サイコロジスト、ペイ!!という言葉はいまだに耳に残る。
心理学者というのはほんとうに儲かるのだろうか。